つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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縛りつけ、痛める行為だけは素早い岸田政権。

 国会が始まって1ヶ月になろうとしています。「安倍政権がさらなる苛政の第一歩にさせてしまう」危険性があると述べてきました。今回岸田政権が送り出してきた法律案はそれを加速させるような出来事が並んでいます。

 経済秘密保護法案という法律は数年前に強行成立させられた秘密保護法案を経済技術分野にも広げ、体制を強化するもの。

 食料・農業・農村基本法 改定案に関しては、平常生活の自給率向上は放棄しておきながら万が一が起きた時の強制性だけは高めると。

 言ってしまえば、市民生活をより窮屈に縛って、叩き臥せようとしているという意味では共通。

 さて、空気巻き起こしますか。

 ふざけんなって。

「避難所支援終了」記事に。難儀する人への支援を打ち切るスピードは凄まじく速い岸田政権・日本社会を厳しく見ます。

 拙稿では社会に対する考え方一般を記述していますが、同時に記すべきである社会活動の現場の記述について薄まっていました。波のあるアカウントですので性格踏まえてお付き合いいただければと思っています。

 ここ数日の報道でげんなりとさせられているのが「能登北陸地震における避難所支援の縮小」。ダメージが大きく、さらに避難所に必ず全ての人に対応しきれない状況も相まって、私設的な避難所がありますが、そこに対する援助はやめる、と。あれほどの大きいダメージ受けた状況下で、早々と援助を切り始めますか。そこに引っかかるものを覚えました。

 そうでなくてもこの能登北陸地震に関しては『救援に対する動きが鈍いし冷たい』と思わせる出来事が多いです。そのことに批判すると批判する行為そのものが悪いかのように逆ネジ食らわされる。そのことにも疑問を持たざるを得ません。

 数日前に日本共産党高橋千鶴子議員(東日本大震災のあった東北地区議員)による「切り捨てを許すな」の質問から何日も経たない間に、こういう縮小傾向が見られることを厳しく見て「落ちこぼしを生むな」と行政に認識させる行動をしていかな、と考えています。

 難儀する人への支援打ち切り言えば、共同親権問題でも信頼関係を失った人間関係の修復強要という話も見えますし、難儀した案件の検証の結果設置された施設を壊そうとする動きが水俣でも見えはじめたと聞きます。「2010年代の安倍政権は“序曲”」にさせないために、世に示し続けていきましょう。

日本代表野球選手の労組脱退報道に-「必要なもの」を壊し続けてきた自民苛政を問う。

 幾度か記していますが、通常野球部分の記述は別ブログでを行っていますが、社会活動に関わる部分があればこちらの方で記述することがあるのをまずご了承ください。

 世の中ではNPB日本プロ野球のキャンプ真っ最中で、ある日昼間テレビをつけていたら楽天とロッテの練習試合の様子が。昔は2月後半になってようやくオープン戦、という世相でしたが、実戦に入る期間が早くなっているのに驚きながら野球を見ています。

 さて、何でこっちの方で書くことがあるかと言うと、佐々木朗希君がプロ野球選手会労働組合を脱退していたという話が報じられていまして。今年からドジャーズでプレイする山本由伸投手も脱退していた、と。

 労働組合入る入らないそのものに関しては個人の自由ですから、それそのものに関しては私は問いません。佐々木朗希、山本両氏の行動もしかり。ただ、労働組合を軽んじること社会の空気というやつですか、そこにはどうにも、と思うものがあるわけです。

 労組の中にいる人間で-末席を汚してるだけとも言いますが-納得しないというのも一つですが、それ以上に労働組合が持つ権利の重要性が軽んじられるのに耐えられないし、使われずに放っておいたらその権利は削られる。現にアメリカでは労働組合の権利を縮小させ、同時に政治献金は強大なまでに拡大させて労働者から搾る体制を強化している。それに倣って日本社会でも同様な動きが牽強的全体主義と併せて幅をきかせつつある。「権威主義」と「労働者である自身の立場」を融合させるために、「条件改善は俺が支持する権力者様がおこなった!労働組合なんか必要ねえよバカ」と言い募る輩も。

 安倍政権が権力について以降、日本社会を支えてきた柱がボキボキと折られてきました。安倍政権そのものは立ち去り、そこから2代政権は変わりましたが、壊された影響というのは今後さらに出てくるわけで。そういう意味で汚されてきた左翼的な考え方というのを見つめ直さなければならないと考えます。

 死なばもろとも、とばかりに人民的権利の何から何まで否定するような発言も目立ちますが、「てめえが死にたいと思うのは勝手だが死にたくねえと思う人のまで待って機材にすんのをやめるという趣旨で抗うつもりです。

「政党法」「“安保”条約容認」-存在の根幹を壊そうとする者たち。

 拙稿ではここ数年、いわゆる左翼的思考を消滅に追いやろうとしている今の日本社会に疑問を持ち批判もしてきました。

 ここ2日間でも気になる記述が。1つは政党法の話。「政党の行動は市民にも回る」という論立てで、政党を縛る法律が必要と語られがちですが、そもそも政党とて「結社の自由」で語られるべきもの。容易く権力の側から縛りを入れさせていいのかという疑問があります。

 もうひとつ言や…特に日本でこれまでなされてきた政党法論議は「共産党をつぶす」こと。今回もヤフコメなどでそれを外さない言論状況を見ています。 自民党の裏金問題による不信感を利用してさらにひどい方向に持って行かすことは断固、お断りです。

 もう一つ日米安保条約に対する態度。「対中国/対ロシアの問題があるからこの条約は外せない」というご意見もありますが、この条約がアメリカによる日本支配の源になっているということを忘れてはならないものです。残念ながら、今の政党でそれをはっきり述べているのは日本共産党しかありません。

 「野党で共闘するからには“日米安保条約廃棄”の旗を下ろせ」というご意見も出ていますが、「よほど踏まれるのが好きなのですか」という思いをしながら見ています。「廃棄なら自主防衛強化を」という声もぶつけられますが、「アメリ覇権主義」に甘んじる立場はどうなんですか、と申し述べておきます。

 拙稿、コンスタントに毎日書けるブログでなくなって久しくなっていますが、

それでも少なくない方に見ていただけることには感謝します。火がつけば毎日のように書きますが、当面低空飛行ご容赦ください。

全体主義・収奪者自民党とベクトルが違う共産党を失わすわけにいかない理由。

 今の日本の政治社会で、政治家個人はともかく政党として自民党の影響を受けない勢力というのは日本共産党(と社会民主党)しかありません。立憲民主党と国民民主党の前身である民主党にしても自民党から「共産党に票を行かせない」ために生まれた勢力。公明党も生まれ育ちは別でありますが自民党政治に加担しているし、維新にいたっては自民党の特に強欲な人たちで形成されている一派。

 最近、様々な“問題”を持ってきて日本共産党並びに左翼の存在を潰そうという動きが見えています。強く見えるようになったのが2021年の総選挙あたりから。これだけ強力に押しつぶそうとしているのは何でか言えば「共産党・左翼がリードしてきた人権思考の回路を潰して、“1つの考えしかない日本”に持って行きたいとから。

 それが故に共産党の“独自”な見方が気に食わず先のような行動をとらせ、「世の中の大勢に巻き込ませて順応させて押さえ込めばいい」と考える人たちが、共産党が存在している根管を失わせようと動いている。近隣で目に見えているのはアメリカ従属の元凶・日米安保条約の廃止を取り下げさせようとする一派の言動ですが、私は生活弱者に対する部分で「潰したい欲望」を感じています。“べからず選挙法”と言われる公選法への過剰適応を求めたり、社会保障がなければ生きるのに難しい人たちに対して切り棄てを求める声も。

 権力による収奪を己の支持勢力のみを肥やすために行う自民党タイプの政治に根本から立ち向かうにはどうしたらいいのか。過剰な攻撃の前に自我を保てなくなり、過剰適応に走らされている方もおられますが、それは墓穴掘りになっていないか、と。

 「左翼的思想」が何故必要なのかを示して行動していく。目立ったもの勝ち、フラッシュ的にウケた者が勝つ、という動きと一体で破壊行為が行われている。それに対応するにはどうしたらいいか言えば、 確信を持ってそういう道を歩み、示し続けることが必要じゃないでしょうか。諦めさせようとする動きが目につきますが、折れずに歩くことにします。

 今日もおつきあいいただきましてありがとうございました。

【今週のお知らせ】①日本共産党北上市演説会 詩歌文学館で2月17日午後2時開演。弁士は山添拓政策委員長・吉田恭子衆院予定候補、安徳すみ子、髙橋久美子、たじま清美各氏②金ケ崎町議選挙、阿部隆一候補にご注目ください。

「安楽死推進」が棄民政治を招く―「避難者の追い出ししない」を確約できない岸田答弁と重ね。

 今週前半は時間が取れず、その間に1つ記事は起こしていますがアップするには2段階の作業が必要だったのを忘れてアップしていなかったのを確認、金曜日に2連続で記事をアップしたのはそういう事情があってのことでした。

 国会は始まっていて、推しの日本共産党国会議員団が、「市民に直接益が届く政治を」という立場で奮闘されている様子を見ていますが、そこの部分に関しては他のSNS発信者にお任せしたいと考えています。まあ同時に書ければいいのですがあまり器用とは言えず。何か方法がないかは考えてみます。

 さて。特に私が取り上げてきた「安楽死」問題、私は拒否派ですが、そんな私でも尊厳死…過剰な治療で消耗させるよりは“休ませてやった方がいい”という立場も同時に持っています。実際それで母親を“休ませた”経験もしたので、余計に苦しむことはさせたくない―までは理解します。

 しかし、いま出ている安楽死賛成者の意見は「どうせこの世生きてたら苦しいだけだからとっとと死ね」。そう言われても生きようと思っている人には「別に貴様に死ねといっているわけでない」とごまかして、そのあとに「でも貴様の属性はジャマだから去んでもらいたい」と叩き伏せる。

 吐き気がするったらありゃしません。

 私のSNS紹介のところに「安楽死推進者の敵であり続ける」と書きました。色々理由つけて「お前らは“俺”に苦労させている 俺たち“安楽死賛成”こそ正道だ」と安楽死推進者は述べていますが、最低限の「生存」すらさせねえで何ぬかす、としか思いません。

 話を国会に戻しますね。今日は国会で高橋千鶴子議員が能登北陸震災について質疑しましたが、その中で引っかかることが一つ。

 震災被害者の避難場からの追い出しをしないことを要求しましたが、岸田首相は確約の答弁をしなかった。「将来のことなんてわかんない」と擁護される方もおられますが、次の行き場も用意せず、追い出し行為を防げないとはっきり言えない政府は避難者・被災者にとって役に立てないでしょ。

 安楽死推進者は自分たちの都合の悪いものは殺してしまえば楽になると言い募り、それにつられた新自由主義者がそれを囃し立て、そういう勢力に力を得ている自民党が“建前”かなぐり捨てて棄民政治に荷担する。

 安楽死政策と棄民政治はひとつながりで、正していかなければならない対象です。「いまの多数派に逆らう批判行為は民主主義の敵」呼ばわりまで目にしていますが、痛覚神経無くした身体は警告にすら気づけなくなると警告して、あちこち回った一文を閉じます。おつきあいいただきありがとうございました。

“惨め”な写真を載せ「こうなりたくなかったら大人しく死ね」と誘導する輩に。

 

 ここ数年、時折見られることとして「入院加療中の人の“惨めな写真”を載せ、さらに尊厳を貶めるような言語を添えて『ほらこいつらは惨めだろ こいつらは金食い 診療は無駄だ 無駄を減らすためにこいつらに対する診療をやめよう そしてこいつらを楽に死なせるために安楽死を設置しよう』─そういう類のご意見を目にすることが多くなりました。

 結論から言ってしまえば「ふざけんなボケ」が回答。何に誘導してんだこいつらは、としか思いません

。最近は異常なまでの“殺せ”合唱に対する疑問の声も出てくるようになり、そのこと自体は心強いものがありますが、「無駄なものは始末しろ」と自らは手を汚さず安全地帯から他人をぶん殴るようなやり口でことを進めている連中の強欲さを甘く見てはならないと考えます。

 「てめえの勝手で殺される言われはねえ  黙って殺されてくれると思うなよ」

 と私は言い続けます。

「ダメだこりゃ」吐きたくなるけど吐かない。1と0では違うから。

 まずは…SNSで見てしまった下記意見をご覧ください。

f:id:b-itoh1975:20240209020428j:image

 これまで左右、上下で位置を違えて意思を発する様子は見てきましたが、この意見はそれを通り越して私から見れば「斜め上」の発想です。権力者の認めたものでなければ罰則が与えられて当然だ、という思考回路には口をあんぐりさせる他ありません。

 正直、「ダメだこりゃ」という言葉が頭に浮かびます。上記ツイートは極端なものであれ、傾向を表すものだから。

 それでも、打たれ伏してしまうわけにはいきません。今の左翼とか人権派と言われる人たちが持っている意識は、長年の人類の経験の上で生きている個々人が守られなければならないという意識を持ち始めて、何百年の経過を経て、ようやく得ることができたものです。

 いわば人類の歴史で言うとごくごく最近なんですよ、そういう意識持ったのは。人権意識がなければ簡単に他者は排除できる考えに持ってかれる。もっと言えば簡単に敵対者は殺しても構わないという考えに至ってしまう。

 人権意識でガチガチに固めようとしている今でさえそういう意見が出ているでしょ。人権なんて考えるのめんどくせーから“今のボス”にひたすら従っていればいいと考えがちに。それがあのツイートに現れているわけです。

 冗談じゃねえ。

 そんな世の中だったら俺は生まれちゃいねえ。

 左翼的意見とか人権とかが出てくるYahoo!ニュースがあると、ヤフコメがあっという間にそれを否定する意見で埋め尽くされてしまうけど、それでも“左翼的”“人権的”意見を言い続けるのは「1を0にしない」ため。一人でも多く早く今の人権思想をが大事だということに気づいていただきたいと考えてます。

またも「放送休止中生放送」/最低限の引き下げは平均も引き下げる―ラジオから見る景色。

 先週末の大船渡行きは大きく体力を使い、さらに日曜日には予想外の仕事も降りてきて月曜日は休んでいました。日曜日の夜、IBC岩手放送ラジオの「放送休止中生放送」やっていたようです。2ヶ月に1回はこの番組やってるのに驚き。いつの間に定例化したんだろう笑。

 一方で新聞読んでいたら 見過ごせない記述も。AMラジオをFMに置き換える動きが起きている中、能登北陸震災の現地放送局でAM波を試験停止する、と。その行為によって番組が届かなくなる箇所が出てくる危険性もあるのでは、という警告的な記事が書かれています。

 たしかに、FM波はクリアな音声が聞けるのでそれはそれで貴重ですが、AM波は「番組を聞くことができる必要最低限の設備」と言えるもの。“必要最低限”がここでもまた壊されるのか、と思うと気が気でない思いもします。

 社会活動やっていて、最近危機感を覚えているのがいわゆる最低限…難しい言葉で言えば「ナショナルミニマム」が切り棄てられる状況にあること。“最低限”があるからこそ生活の底上げがなされていることに、日本社会がもう1回気づいていただきたいと思っています。

 気がつきゃ節分は終わっていましたか。豆まきやらなかったしぶつけられもしなかった。彩りのない暮らししてるなあというのを苦く思いながら生きています。おつきあいいただきありがとうございました。

「どうせ~だから存在無くしゃいい」は、困難越える力を失わせる―障害者の存在と安楽死議論から。

 過日のブログ記事で「障害者と世の中のつながりでピントが合ったら何か書く」と記しましたが、ピント合うような記述が浮かびそうもないので、いま書ける部分を記しておきます。

 私は自閉症・情緒障害を持ち、幼稚園・保育園はいくつか通った記憶がありますが集団生活になじめず、ほどなく“放逐”された記憶があります。小さい頃、盛岡とか花巻とかの何かの施設らしきものに連れて行かれましたが、あれは親の模索だったのでしょうね。

 当時は自分の状態での小学校入学がままならず、就学免除になる可能性もあったので、なんとか対応できる箇所がないか駆け回ったのでしょう。その後、地域の運動もあり盛小学校に情緒障害対応の教室が設置され、私はその一期生として就学にありつくことになります。

 そういう状況ではありましたが、近所の人とのつきあいはフラットにしていました。自分の出てしまう特性は特性として、一人間として踏まえなければならないことはきっちりと周りも家の親もわきまえさせていた。そういう教えがあったからかろうじて社会に引っかかることができたと思っています。

 障害を持つ子どもが故に 世の中の厳しい風から守らなければならないという心が働くことも否定できない。私の母は良く言えば“放っといた”、悪く言えば“ネグレクト”だったわけですし。いずれ「社会の中に自分が存在している」ことを忘れなければいいかなとは思っています。

 それを踏まえた上で。

 いま出ている「障害者は安楽死させた方がいい」との意見。「どうせ不幸にしかならないから」が言い分ですが、「そういう社会だ仕方がない」と諦めてしまえば、「よりマシに生きられる状況」を作ることができなくなる。勘弁してくれようと思います。

 私が就学免除の危機に合ったことは幾度か述べていますが、環境整備が社会発達のなかでなされなければ「障害者の通学」も実現していない。身近な一例あげれば一関南光病院が労働組合の取り組みにより診療環境が良くなって、自分のような情緒障害者でも対応できる特別教室も設置できる道につながった。“どうせ”で諦めたらそれはない。故に「なくなればいい」で済ますな、と考えるものです。

 おつきあいいただきありがとうございました。