つなげ“希”動力-伊東勉のストラグル日記。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

イスラエル・アメリカのイラン攻撃を「仕方ない」で済まさない。更に「近隣との人付き合い」も。

記述日:3月1日
① 2月28日午後、イスラエルとアメリカがイランを攻撃したという情報が伝わりました。イスラエルのガザ・パレスチナに対する傍若無人さは承知していましたが、「それだけでは済まさないな」と思っていた矢先のイラン攻撃。アメリカもそれを後押しする形となりました。
 この一連の報道の中で私が気に障ったのはトランプ氏のイラン国民に対する呼びかけ。「俺たちが攻撃するから、その後イランの国民が今の政府を転覆させろ」という趣旨の発言ですが、そういう形の政権交代はどんなに善意的に見積もっても、イスラエルやアメリカに「借り」を作る形での政権交代。そうなるとイランはアメリカの言うことに逆らいづらくなってしまう。それが果たして「まともな政権交代」と言えるのでしょうか。
 今のイランの権力者が行っている圧政から逃れたいという気持ちそのものは分からなくもありません。しかし、この形で政権交代が行われることは「支配者が交代するだけ」でしかありません。それを分かっていながら、平然とイランの人々を手下のように扱うトランプ氏の発言に攻撃そのもの以上の怒りを覚えました。
② こうした実力行使が積み重ねられると、「世の中そんなものだ」「仕方ないよね」という言論が場を占める。「国際ルールや外交があったところで、結局は実力行使には敵わない」という意見。日本では護憲派や反戦を訴える人に対して、そういう言葉が投げつけられます。
 しかし、18世紀以来着々と積み重ねられた「反戦・不戦」の国際的基準は、戦争が各国の権利だけで行われていた時代とは違います。「殺す側の権利」だけでなく、「殺される側」の意思をも汲んで、「誰かを殺すという最大の人権侵害を招くもの」の反省から不戦の約束事が作られてきたはずです。
 それを打ち破ったイスラエルやアメリカに向けられるのは、ただただ「ふざけるな」。実際に殺されないために、この何十年もかけて作られた反戦の歴史を学ぶことが必要です。「抑止力」として軍事強化に活路を見出す人もいますが、相手側から見ればそれは自分たちに銃口を向ける行為。だからこそ緊張緩和をしていく必要がある。
 何も「嫌いなものを好きになれ」と言っているわけではありません。
 近くにいるからこそ、嫌いでもいいから人付き合いができるような関係を目指すのが適切だと考えます。

震災から15年、ここにも持ち込まれる「人権思想の否定」。「絆」と自己責任論も混ぜて考察。

記述日:2月27日 
① 3月になると東日本大震災を思い起こす記事が出てきますが、あれから15年経つんですね。1960年のチリ地震津波が起きて15年後に私が誕生しましたが(1975年)、それと同じだけの時間が経ったのだと思うと、随分な時間が流れたと感じます。そして2月26日は、大船渡の大規模森林火災が起きてから1年となります。
 私の故郷・大船渡は、この2度の災禍を越えてきました。岩手日報や地元紙の東海新報では、当事者や関わる人たちのドキュメントを載せています。そこには必ずしも綺麗事だけではない、厳しい現実も突きつけられています。
② ただ1つ気になることがあります。最近の人権状況などに関して、人道主義的あるいはリベラルな記事が出ると、あっという間に憎悪のこもった否定的な記述が並ぶこと…はたびたび記してきましたが、それは震災被災地も例外でなく。能登半島地震の復興に関する記述では「そんな不便なところに誰も住まないよ」「金を注ぎ込まないで、これを機に集約させてしまえ」という意見が並びます。
 要は「税金の支出を抑えるため、復興は諦める」という趣旨。
 しかし、そうした「ごまごまとした場所」に人がいることで農業・漁業などの一次産業や森林の保全が行われてきました。それらを軽く見るから、こうした言論がはびこるのではないでしょうか。
③ ここ30〜40年の左翼あるいはリベラルの否定、自己責任論の蔓延。そこから抜け出すことこそが楽に生きられる道だったはずですが、権力者がそうした締め付けを好むせいで、先の総選挙でもそうした勢力が圧倒的多数を占めるに至りました。
 それでも現場では、そうしたやり方だけでは社会は賄えないと、人権を尊重するやり方で問題を解決しようとする思考回路はまだ残っています。その回路が残っているうちに、今の締め付けから脱却したい。それが震災や森林火災を思い返すたびに強くなる、私の思いです。

人権を扱った記事が出れば即否定…生存権が軽んじられている社会に抵抗を。

記述日:2月22日

1️⃣ 総選挙が終わって2週間になりますが、課題や宿題は次々と振りかかってくるもので、しょげている暇なんてありません。

 近々行われる奥州市議会議員選挙において「市民生活から出てくる要求の実現」と、その原因となる「自民党政治の打倒」ができる勢力を維持するという意味で、日本共産党の瀬川貞清、今野裕文、佐藤みゆき、千葉あつし、そして元職の千田みつ子の5候補者を支援する行動をしています。前回は無投票という結果でしたが、今回は10人近くはみ出しとなる激戦の選挙となります。奥州市で出産できない状況を打破するなど、市民生活防衛の取り組みを進めています。

2️⃣ ここ数年、時折思い返さずにはいられない出来事を書いておきます。

 人権に関わる課題が書かれたWeb記事にコメント機能がある場合(例えばYahoo!ニュースなど)あっという間に上位コメントに「人権主義的思想の否定」が次々と並びます。「救う余裕は日本にはない」という言葉で、高齢者や障害者の福祉を要求する人、制度の維持を求める人に対して「もう金がないんだ。お前らみたいなのを生かしていく余裕はない」と。はっきりとは言わずとも「身の程を知れ」という言葉が並びます。日本社会はここまで力が落ちたのかと感じざるを得ません。しかも、その元凶である長年政権を運営してきた自民党には何も言わないのです。

 こうした状況については2020年代に入ってからずっと申し述べてきましたが、特にここ1、2年で、その突き刺さる言葉の具合がさらにひどくなった。以前はオブラートに包まれていたものが、余裕がなくなったのか凄まじく「攻撃的」な言葉が放たれています。その言葉を目にした人たちがそのまま自死の道を選べばいいと言わんばかりのやり方は看過できない。

 定型句ではありますが、「黙って死んでくれるとでも思うな」という思いです。

3️⃣ 問題は、それを権力者や国会議員が言い始めてきていること。かつては自民党議員が時折暴言を吐く程度でしたが今はそれさえ生優しく見えるほど。日本維新の会や国民民主党の議員が人権主義的な考えを排除するような物言いを強め、さらにそれを煮詰めたような参政党が力を伸ばしました。先の総選挙では「チームみらい」を名乗る勢力が、言葉こそ「選んでいる」ものの実質的に弱者に対して辛辣な言葉を投げかけています。

 もはや、人権や左翼的な考え方に対して辛辣に当たることが「デフォルト/標準」になったかのような状態です。

 この指摘は優しさで言わない。

 その考え方は結局「墓穴を掘っている」としか思えない。高齢者や障害者への税支出を「無駄だ」と叫びますが、その支出がカットされれば負担はすべて当該の家族に跳ね返ります。その家族の多くは現役世代。「現役世代のために福祉を控えろ」と言いつつ、結局は現役世代に負担がのしかかる構造になる。

 「それでもいいから安楽死も含めて始末してしまえば支出はゼロになる」と語る輩もいますが、そこまで行くとメンタリティは障害者虐殺者・植松聖と同じ。実際に殺害行為に至っていないだけで、空気が充満して何かが着火すれば、一気に物理的な排除に向かいかねません。

4️⃣ 私のように「攻撃されたら叩き潰す」という気概でいる人間は多くありません。多くの方は、反撃に転じる前に殺されてしまうでしょう。そういう殺伐とした社会になりました。

 「平和を言う人が争うことを考えていいのか」と言う人もいますが、自分の生存権が侵されるのであれば、何をしてでも抗います。そこまでお人好しではありません。

 対話だけで物事が完全に変わるとは思いませんが、「こういう考え方がある」と刻むことはできる。2006年の第一次安倍政権による教育基本法改悪以来、歪められてきた社会を変える作業は、まだ始まったばかりです。

 私自身、病気の影響で長時間の会話が難しいこともあり、田村智子・日本共産党委員長のような立ち振る舞いはできませんが、諦め悪く歩き続け、社会にこうした思考が存在することを示し続けていきます。

憲法審査会、護憲派に与えられたのはわずか1議席。その1議席を元に反撃を期す。

 制作日:2月20日 
 私ごときが言うまでもありませんが総選挙の結果があの通りとなりまして、特に日本共産党が力を維持することができなくなり、国会の各種委員会の席配分も厳しいものとなってしまいました。その中で個人的に気にかかっていたのが、「憲法審査会に果たして共産党の席は与えられるか」でした。
 通常、衆議院議員の総数は465人ですから、おおよそ10議席あれば各種委員会に1つは席が回るという算段になりますが、今回日本共産党が得た議席はわずか4です。そうなると、必ずしも全ての委員会に席が用意されるわけではありません。
 ただ憲法審査会に関しては、圧倒的に他の政党は「改憲派」という立場でいます。中道改革連合に組み入れられた立憲民主党にしても、必ずしも護憲派の議員だけが存在するわけではありません。事実、今の立憲民主党出身の議員で、明らかな護憲派と言えそうな議員は1、2人程度でした。
 それでも、日本共産党の畑野君枝さんが憲法審査会に入っていたことにひとまずは安堵しました。「ひとまずは」です。そもそも良くて「2対48」という構図ですし、意地悪い見方をすれば「48対2」あるいは「49対1」でなぶり殺し・見せしめにするために、あえて共産党に1議席をよこしたのかな、などとも考えてしまいます。
 人間不信もここまで行けば大したものですが、それでも「ゼロ」ではないわけです。
 確実に護憲派と言える議席が1つ残っています。国会の審議では、ここを反撃の場にしていく。そもそも論として、今の日本社会から人権主義的な考えを失わせないためにも、抗っていかなければならない場面。そう考えたらビビってなんていられないんですよ。
 「2対48」だろうが「1対49」だろうが関係ない。
 議席配分を決めた改憲派・与党勢力に対し、「安易に席与えたことを後悔するなよ」と、あえて申し上げておくものとします。

大阪MBSの「参政党支持者に襲撃」報道に疑問あり。果たしてきちんと裏付けを取った報道だったのか。

記述日:2月19日  
 ここ数年、「コタツ記事」というのが流行っています。要はSNSや他の媒体の情報を元に、直接本人に当たらずに記事を書くというものです。私も記録のためとはいえ、「もう一つの主題」ではその手法で記事を書いているので、手法そのものに関してはあまり人に強く出られる立場ではありません。ただ、裏付けを取って記事を書いているのかという点、特に本人の信用に関わる問題などは、厳しく問われなければならない場面もありますね。SNSでパッと現れたものにすぐ飛びついて記事を書くのはダメだろうと思う次第です。
 今回それを感じたのは、大阪のMBS(毎日放送)が、「しばき隊」と呼ばれる勢力が参政党支持者を攻撃して骨折させた、という報道を流した件です。しかし、該当の記事を見ると色々と合点がいかなかったり、怪しさを感じる部分があります。映っている映像には「しばき隊」と認識される人物も映っていますが、果たしてそれは本当に本人が手を下した場面なのか、骨折を生じさせた瞬間に起きた出来事なのか。その証明がなされていません。
 また、該当記事に登場する人物は「しばき隊研究家」と名乗っていますが、本当の意味での研究家ではなく、言い掛かりや野次馬根性の人が自称しているだけではないのか。そういった不確かな情報で「誰かが犯罪を犯した」と決めつけるような報じ方をしていいのかと、疑問しか覚えません。案の定、ここ数年来続いている「反権力的な言葉を発信させない」、もっと具体的に言えば「共産党など『尖っている』勢力を貶める」目的で動いているのではないか、と疑っています。
 しかし、放送直後から「これはおかしいぞ」と思った人たちが相次いで反撃に打って出ました。次々とMBSや自称研究者の矛盾を突いていくにつれ、MBSの報道はトーンダウンしました。ネット上の記事は一定時間が経つと消去されるのが習わしのようですが、それまでに何度も記述を修正しており、当初の「しばき隊が参政党支持者を骨折させた」という断定的な書き方はもはや消えていました。「しばき隊研究家」と名乗る本人も、当初の報道に関しては誤りだったとする発言をしています。
 今のところMBSは知らん顔をしていますが、誤報を生じさせるような、あるいは特定の勢力に対する攻撃を加速させるような不適切な報じ方に関しては、厳しく問われざるを得ないと考えます。

高支持率でも譲れないもの―高市支持派「強者」の余裕のなさと、非ANTIHATEの「甘やかし」疑問。

記述日:2月17日

 「しばき隊」誤報道のが疑われるMBSの騒動もそうですが、わずか4議席に過ぎない勢力を、何をそんなに怖がっているのか。共産党や左派勢力の発言を徹底的に叩きのめそうとする傾向が、ますます強まっています。選挙で衆議院の3分の2を超える議席を得たというのに、まだ何が不安なのかと、あえて言わざるを得ません。

 かつてロシアのプーチン大統領支持率が9割に達した際、その反応が「それでもまだ物足りない」「残り1割の屈服しない奴らがいることに腹が立つ」という内容だったとの報道がありました。当時は「そういう心持ちもあるのだろうが、9割も支持があるのに随分と余裕がないものだ」と思っていましたが、まさか今の日本で似たような光景を目の当たりにするとは思いもよりませんでした。

 ただ、日本の場合はロシアと事情が少し異なります。

 共産党に対する攻撃は、単なる与党支持層からだけではないのです。元党員や、現在の中央委員会のやり方に異議を唱える人たちの一部が、共産党攻撃に精を出しています。もっとはっきり言えば、「自分たちのスタンスが正しい」と証明するために、共産党には失敗してほしい、こけてほしいと願う人がいる。そのためなら、社会的に必要だと思われる物事すら等閑(なおざり)にし、支持を得るために敵対勢力に媚びるような真似をする。たとえば反差別運動においても、反中央の立ち位置にいる人が「差別を振りまく側の論理に立って物事を考えろ」といった行動を取ることがあります。一言で言えば、「ふざけるな」、です。

 私自身、体育会系の気質があることを承知で言わせてもらえば…救援的な活動そのものは否定しません。しかし、その道に踏み出すのは、差別やヘイトをぶちかましていじめる行為をやめさせてからの話でしょう。それなしに、加害者側を甘やかすような真似をしていいはずがありません。まずは不条理な行為を止めさせてから、その後のことを語るべきですいじめ行為で泣かされている人がいる現実を抜きにして、「いじめたくなる心境も分かってやろう」という姿勢は、到底受け入れられません。

 欧州の左翼勢力が対話を通じて力を持ち直し、今回の総選挙でも田村智子委員長がそれに倣った動きを見せ始めましたが、それにも限度があるはずです。その一線は、はっきりさせておきたい。
 私自身、他人の助けを借りてボロボロになりながら50年生きてきましたが、その助けられ方は決して「甘やかし一辺倒」ではありませんでした。先日の選挙中の記事でも述べた通り、必要な時には厳しい指摘も受け入れなければならない。支援という名目で大局を見誤るな、という思いでX(旧Twitter)でも時に棘のあるやり取りをしていますが、ここでもそのスタンスで対峙していく所存です。

「批判=打撃」という風潮/社会の最低限「ナショナルミニマム」について。

記述日:2月9日

1️⃣ 気がつけば私も50歳になり、自分より下の年代の人が多くいる状態となりました。当然、世代間のギャップも発生するわけで、それにどう向き合うか考えさせられることもありますが、どうしても譲れないと思う部分もあります。

 特にここ数回の選挙戦、とりわけ今回の選挙で明らかになったのは、「批判=打撃(攻撃)」と捉える思考回路。「批判をする」という行為そのものがマイナスに作用してしまう事態が生じています。正直、これはいったい何なのだろうと感じます。

 私自身、昔気質の体育会系に身を置いていたこともありますが、それを抜きにしても必要な場面で「叱る」ことは教育上必要だと考えている人間です。代表的な教育論として、元MLB選手の菊池雄星選手のお父様がお話しされていたことが心に残っています。

「息子がやる事に関してはほとんど見守っていたが、命に関わることに対しては厳しく叱りつけた」

 という趣旨のお話でした。私自身もこのスタンスです。私自身の性格は短気な方ですが、怒りに任せて物事を進めることはしないよう律しています。しかし、昨今の「批判=悪」とする風潮には「ちょっと待てよ」と思うのです。批判そのものを拒絶する空気は、少し度が過ぎているのではないでしょうか。

 これは現政権の支持者に限らず、リベラルや人権主義の立場を取る人たちの中にも、批判に対してマイナスイメージを抱く人が増えています。「批判を前面に出しすぎるな」という戦略なら理解できますが、「批判が全くない」というのは違うはず。一方で野党に対しては与党側やアンチリベラルの立場から激しい批判が浴びせられているのも事実ではありますが、ここまでの記述を認識いただければと願います。

2️⃣ もう一つ、この選挙で顕著だったのが、ショート動画による刷り込みの影響です。自分もしていてからなぜショート動画の話をするかというと、これまでのリアル社会における街頭宣伝やビラ配布、電話かけといった有権者への情報伝達手段が、今や「動画サイトでいかに短時間で発信するか」という形に様変わりしているからです。

 この背景には、多くの人が「文章を読む余力」を失っていることがあるのかもしれません。私のブログやFacebookでは、2020年代に入ってからも原稿用紙1~2枚分を目安に書いてきましたが、読者から「原稿用紙1枚でも長すぎる」と言われた時は驚きました。さらに最近では「(X・旧Twitterの)140文字でも長い」と言われ、さすがに冗談だろうと思わざるを得ませんでした。SNS動画も「長くても15秒、大体6秒から10秒で決着がつくものを」と提案されます。

 残念ながら私の考えが追いつかず、今回の政治戦で作った10本の動画は、どれも1分半ほどの「ミドル動画」になりました。ショート動画の制作も試みましたが、構成を上手く作れず断念しました。

3️⃣ 最近はCanva(キャンバ)などのデザインソフトが発達し、私の周りでも月額契約をして活用している知人が増えています。しかしその流れの中で「置き去りにされているもの」はないでしょうか。便利になっても、アナログな技術でしか情報を得られない人もいますし、作る側も全員が便利な機材を使いこなせるわけではありません。

 政治には、非多数者へのな配慮」が必要な場面があります。誰もがスマホを自在に操れるわけではないという視点は、投票権の保証などにおいても不可欠。個人の仕事や趣味であれば、自分の能力に合わせて便利なものを使えばよいでしょう。

 しかし、政治は社会に存在するすべての人に関わる場所です。便利さにかまけて「ついていけない人を叩く」様子も見かけますが、その様な切り捨ては「棄てたゴミに足をとられる」事態も招きます。何故「社会最低限・ナショナルミニマム」が置かれているか、一考を願うものです。

総選挙と反動右翼勢力による「言葉の書き換え」。

記述日:2月10日

1️⃣ 2026年の総選挙において、目に見えて明らかになった出来事は多くありましたが、その中であえて「言葉の書き換え」―正確に言えば「概念のすり替え」と呼ぶべき事態について、少し書いてみます。どうぞお付き合いください。

2️⃣ 特に昨年の参院選後から、リベラルや人権主義思想に対して、逃げ道を塞いで殴りつけるような攻撃が加えられています。これまでの左派が積み上げてきた言説を全否定するような動きの実態についてお話しします。

① 自民党改憲草案による「憲法第97条」の削除

 現行の日本国憲法第97条は、基本的人権が「『人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果』であり侵すことのできない永久の権利である」ことを示した、最高法規としての役割を示す条文です。11条にも基本的人権は書かれていますが、97条はその存在をより強固に裏付けるもの。

 ところが、自民党改憲草案(2012年発表)では、この97条が削除されています。「11条があれば十分であり整理しただけだ」との説明や、中には「GHQ幹部のお気に入り一文だから保持したのだ」といった乱暴な意見も散見されます。しかし、この97条を外すことは、11条を単なる飾りに変えてしまう危険性を孕んでいます。

② 憲法第36条「拷問の絶対禁止」からの「絶対」削除

 戦前・戦中の大日本帝国は、体制に逆らう者を拷問で徹底的に痛めつけました。判明しているだけでも約1500人以上が命を落としたという反省から、現行憲法は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁止する」という条文を作りました。

 しかし、自民党改憲案ではここから「絶対」の文字が削られています。「禁止は禁止なのだから絶対がなくても同じだ」と言いますが、これまで権力を縛り続けてきた言葉をわざわざ削る意図は何なのか。その先には、拷問を「利用」しようとする権力者側の思惑が透けて見えます。

③ 憲法が縛る対象のすり替え

 本来、憲法とは「法律によって市民を縛る権力者を縛る」ためのものです。ところが改憲勢力は、この矛先を国民に向けようとしています。

 憲法遵守義務の対象を権力側ではなく国民側にすり替え、市民が法律と憲法の二重に縛られるような構造です。別に「憲法は日本の国のあり方を示すものだ」とも言いますが、どっちにしろ「ふざけるな」と思わずにはいられません。

④ 治安維持法小林多喜二の「再解釈」の中身を反動的に変える暴挙

 さらに恐ろしいのは、治安維持法による犠牲、特に小林多喜二の死すら「なかったこと」にしようとする動きです。当初は共産主義を取り締まる目的だった治安維持法が、最終的には戦争に反対するあらゆる人々を縛った歴史は明白です。 しかし最近では「多喜二を死なせた警察権力は悪くない。多喜二側に問題があった」と主張する記述まで見かけます。

 拷問を行った特高警察の行為を擁護、あるいは都合悪いことは無視する。一方で、遺族や弁護団が当時「告訴しなかった」ことを捉えて、警察の正当性を主張する。

 多喜二の母親は文字を書くのもやっとの方だったといいます。特高警察が猛威を振るい、葬儀すら妨害される時代に、今と同じような法的対応ができるわけがありません。こうした背景を無視した難詰はあまりに酷いものです。

3️⃣ 冷静さを欠いた「戦争への傾斜」

 こうした一連の動きは、日本を大日本帝国時代に戻したい/あるいは特定の攻撃的な権力構造を作りたいのか。昨今のウクライナ侵攻や、トランプによる抑圧的な対外政策などの情勢に煽られ「理想は棄てて戦争に備えろ」「9条は古い、敵がいるんだ」という短絡的な考えが響き渡っているように感じます。

 「危ないから、戦争による解決も辞さない」という理屈で9条を蔑ろにし、その結果として国内の生活が困窮しても「戦争なのだから甘んじて受けろ」というのはあまりに逆上せていないか?

 それでも、こうした勢力に力を持たせたのは事実です。私は淡々と自分の意思を社会に置いていく(=発信し続ける)ことを基本にするしかありませんが、それ以上の向き合い方を皆さんと共に考えていければと思います。

総選挙2026、日本共産党は4議席でした。今選挙で打ち出した「資本主義を越える社会を作る意思」。

1️⃣ 2月8日投開票の総選挙ですが、記述が数日遅れました。開票中に記事を書いたり、翌日に速報を書いたりできれば良かったのですが、そこら辺の気持ちが追いつかず、日が経ってからの記述になったことをご容赦ください。今回のエントリーは8日付としていますが、執筆は10日に行っています。

2️⃣ 総選挙の結果ですが、私の支持している日本共産党は得票率約5・1%という結果となり、当選者は比例代表東京ブロックの田村智子さん、近畿ブロックの辰巳孝太郎さん、南関東ブロックの畑野君枝さん、北関東ブロックの塩川鉄也さんの4名にとどまりました。高橋千鶴子さんの議席奪還を狙った地元・東北ブロックでは、15万5466票を得ましたが奪還とはならず、この部分でも残念な結果となってしまいました。岩手県関係では岩手1区に吉田恭子さんが立候補し約1万票という結果となりました(2、3区は擁立/共闘なし)。これまで議席を確保していた東海、九州ブロックで議席が消滅し、近畿ブロックでも議席減という、悔しい結果としか言いようのないものですが、それでも歯を食いしばって歩き続けなければならないわけです。強大な逆風がこれでもかと押し寄せていますが、「戦う意思だけは捨てない」ということだけを確認して、今後も向き合っていこうと思います。

3️⃣ 私の最近の選挙戦の目標である「左派的/人道主義的思考を残す」ということが、最優先の目標にならざるを得なくなっている現状に残念さを感じ、また強い危機感を覚えています。

 日本共産党は今回の選挙戦で、特に「資本主義の枠を超えた社会づくり」という部分の政策も強く押し出すようになり、大きく打ち出した「タックス・ザ・リッチ(富裕層への課税)」「所得再分配機能の強化」など大企業・富裕層だけに富を独占させないための取り組みを前面にしました。この形の政策は他の政党には出せない、共産党だけが持つ強みではありましたが、この21世紀に入ってからの「儲けることが尊い」と考えがちな新自由主義、あるいはアクシデントが起きて社会保障などに頼らざるを得ない人たちを攻撃する「自己責任論」が全方位で浴びせられ続けてきました。

 その考えのもとで「儲ければ偉い」という部分が過剰に追求され、さらに社会保障そのものへの攻撃も凄まじかった状態で、「タックス・ザ・リッチ」の思考も「富裕層の頑張りを折るものだ」と批判の対象になりました。よくよく考えれば、富裕層が自分たちだけで富を固めてしまい、それを社会に回さないこと、あるいはその富を得る手段も多くの労働者や公共インフラを使ってきたわけです。富裕層だけのわがままを許すというのはいかがなものかと思いますが、残念ながら先のような認識(自己責任論など)の前には、今のところあまり快く思われていないという結果になってしまいました。

4️⃣ ただ、今言ったことを完全になかったことにしていいのか。いずれそういう部分とは真剣に向き合わなければならないのではないか―という一石を投じたものとなりました。そのことを社会全体が考えるきっかけにしていただければと願うものです。

2月8日の投票日を前に―差別・排除に抗う1票は日本共産党に【総選挙2026】

1⃣ いよいよ明日、2月8日は投票日当日となりました。

 政策の詳細については、前回記事で詳しくお話ししましたので、今日は重ねて述べることはしません。ただ、2枚目の投票用紙(比例代表)には「日本共産党」と書いていただき、東北の命綱である高橋千鶴子さんを、再び国会へと送り出していただきたい。

 今回の選挙では、これまでの10年で築いてきたような野党間の「約束ごと」は存在しません。だからこそ、資本主義の悪癖と戦う日本共産党の候補者、あるいはその信念を持って行動する方々へ、皆様の1票をお寄せいただきたいと考えています。

2⃣ さて、この選挙期間中に考え続けてきたことがあります。昨年あたりから一段とひどさを増している「差別・ヘイト」の問題です。私個人の思い、少しお付き合いください。

 幾度か発信してきましたが、私は情緒障害を持って生まれました。就学にあたっても多大な苦労を経験しています。 小学校、特に低学年の頃はその出自だけで謂れのないいじめを受けましたし、思い出したくもない被害に沈むこともありました。

 それでも、世間はいじめる人間ばかりではないと信じ、黙ってやられっぱなしにはならないとも対処してきました。そうしたぶつかり合いの中から他者との距離感を掴み、社会に対応できるようになったという経験があります。

 そんな私にとって、存在そのものを否定され、叩かれている人を黙って見過ごすことはできません。 昨今、猛威を振るっている外国人への差別やヘイトを見ていると、彼らヘイターは「いじめていい理由」を捏造しているように見えます。事実をこじつけ、相手の逃げ道を塞ぎ、重層的にいびり抜く。そして「自分たちが正しいのだ」という空気を作り上げています。 しかし、こうした過剰な攻撃は、結果的に社会全体に余計な負荷をかけるだけなのです。

3⃣ この差別ヘイトの問題をどう捉えるべきか。参考になるのが、1月下旬に盛岡で行われた高橋千鶴子さんの訴えです。

 高橋さんの言葉に尽きると私は思います。

4⃣ 今回の総選挙は1月10日頃に突然加速し、あまりに急足で進められました。その過程で多くの歪みが生じ、投票の権利が確実に保障されないような不十分な状態のまま、明日を迎えることになってしまいました。「ナショナル・ミニマム(国民に対する最低限の生活保障)」を守るのが政治の仕事です。しかし、現在の高市政権はそれを最大限に切り縮め、自分たちの優位な立ち位置だけを維持しようとしています。

 ですが、こうした公の仕組みを壊した「歪み」は、いつか必ず自分たちに返ってきます。かつての身分制度でできた歪みが後の世に大きな禍根を残したように、一度作った歪みは、後になってから「復讐」してくるものです。捨てたゴミに足を取られて怪我をするような事態を、政治が招いてはなりません。

 選挙の結果だけで、私たちの反撃する力を削がせてはなりません。 私はこの1ヶ月、自分にできる限りのことを必死にしてきました。社会活動を続けて30年。この先どこまで歩けるかは分かりませんが、歩き続ける限りは、必死に頑張り抜くことを誓います。

 選挙戦、私の想いをお聞きいただきありがとうございました。

 重ねて「日本共産党」への投票、ご検討ください。