つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ

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私の名前は伊東勉/名前の威を借るな。

 私の名前は、この通り伊東勉でございます。

 兄貴はオリンピックメダリストから名前を取りましたが、私の場合は「無事に生まれてくるとは思わなかった」という周りの認識で、名付け親になった祖父が「勉強ができればいい」から勉と名付けたようです。

 この名前でいうと…野球やってる人ならプロ野球歴代有数の名捕手伊東勤さんを思い浮かべる方が多いと思います。私もノックのボール渡しからキャッチャーにコンバートした際、伊東さんの存在は意識しました。そして、同学年の神奈川強豪校にも同姓同名がいたことも。

 最後はやや強引な話をひとつ。神奈川県の同じ歳で同姓同名の方が交通事故を起こした際に私のブログがやたら閲覧数多かったことがありました。おそらくは間違われたのでしょうね。

 以上が私の名前に関わる三つのお話です。

 なぜこれを出したか。

 社会を震撼させている高齢者対象の強盗殺人事件。加害者集団構成員が漫画の有名キャラクターの名前をつけているという話を耳にしまして。

 本人はその名前で何か気を大きくしたのかもしれませんが、被害者やそのキャラクター当人関係者にしてみればふざけんなとしか思わないでしょう。私からも軽蔑の視線を送ります。

 この案件は別な角度からも触れなければ、と考えていますが、まだ冷静に書ける自信がありません。強いて語る言葉を置くとするなら「個人と社会どっちが強いか言えば“社会”。個人が一線を越えさせない社会を作り直すことこそ必要と違いますか」としておきます。

 おつきあいありがとうございました。

産経新聞による共産党破壊工作、今回は田村智子議員に標的か。

 産経新聞がいわゆる左派に厳しい態度を取るのはまぁ認識していましたが、最近は厳しいを通り越して壊しにかかるようなしぐさを見せることが多くなってきました。

 田村智子議員をダシに使い、下衆の勘ぐり」入れて記事を作ったのもその一つ。政党として統一の行動をとっているという当たり前の行為に「はぁたぁしぃてぇどーなのかなぁぁぁ」と猜疑心抱かせるような書き方をして亀裂を入れようとしてる。そしてそれに乗るアンチ共産党の皆様。

 こんな調子でずっとやられるんですかね。

 こんな感じでくそ食わそうとするやり口はこれまでもされてきたし、底抜けになった現状では「それ以下」もしようとするでしょう。現に、離間策投げ込むと同時に、組織的な統一的な行動に猜疑心も入れて“壊そう”としている。

 この圧力は強くなるだけでしょうし、卑怯ゲス上等がいまの社会の流れ。ではそこで諦めるのか?「いま壊そうとしているものは、実は生存のための生命線」であることを認識していただきましょう。

「ゼロ」にできないから意思を表すし、諦めさせようとする目論みは見えたらへし折る。

 今は拙稿のような意見を出すのに踏ん切りというものが必要で、あまりウケもよろしくないもの。それでも完全に誰も何も言わなくなってしまうと、その意見の存在はゼロになってしまう。

 野球というスポーツもやってきたからわかりますが、抵抗する気力を失って何もしなくなれば、たとえ試合が行われていても負けは決定してしまう。自分自身は弱小プレイヤーで、高校まではチームも強いては言えなかったけども、「試合中に諦める」、それだけは耐えられなかった。その場にいる限りは有らん限りの力をもって抵抗する意思は示してきた。

 そういうクセが、今もまだ残っているわけで。

 Facebookではこの後柔らかめに書いていますが、ブログは厳しめに書きます。

 年を追うごとに『何々を殺していい』という言論が当たり前になって、それに対する反撃にはもれなく『綺麗事だ』という戯れ言がついて。要は「抵抗するのも気に食わねえ」ということですね。

 何でそんなのに俺がつきあってやらなきゃなんない。「お前らの願いなんざ叶う見込みがないざまあみろ」と言いたいがために「現実〜」ぶっているのかもしれないのでしょうが、自分たちの生きていられる幅がどんどんどんどん狭まってるわけでしょ。

 「ざまあみろ」という言葉、いつまで使い続けられるでしょうか。弱った箇所を殴って気持ちよく快感に浸りたい―たとえ自分が損をかぶっても―と。そういうふうな事象があるということは承知を越えて吐き気するくらい認識させられていますが、「そことは違う道」が完全に無くなる前に、社会の傷とその原因に気づいていただければ、と願うものです。

「疑う」という言葉は悪いけど―市井から戦争回避に動くためにその行為もします。

 土曜日の仕事は早朝勤のみ。日常の用事をして、あとは休養にあてています。とりあえず体力だけは万全に。オードリーのオールナイトニッポン聴いて、あと寝るばかりです。

 普段の人付き合いでは信頼と信用を基本に相対していますが、社会の見方に関して、特に権力強者から伝えられることに関してはいったん「疑い」を持って見ています。

 ロシアによるウクライナ侵攻の影響は各所に見られます。「安全保障」報道では「今にもどこかが攻めてきそう」な感じで伝えられますが、では今権力を握っている人たちが「争いを回避する行動」に踏み出せているのか。「その様子が全く見えない」としか言えず、それで「今にも〜」報道には疑問点しかわきません。

 偶発的な衝突行為というのはそれを納めれば通常の状態に戻ります。

 しかし、戦争という状態になると総力戦になってしまい、殺し殺し合うことが当たり前、通常の状態に戻ることが困難になります。

 そのこと一つとっても戦争状態に持って行かせるのはどうなのやという思いです。加熱している状況の中では、私のような立ち位置・意見というのは“お花畑”とか揶揄されるものではありましょうが、不自由な生活になる戦争は、回避できるものならした方がいいですね。

 そういう行動に「自国の代表」権力を持つ人間が踏み出せるように、市井の場から圧力をかけて行きます。

 おつきあいいただきありがとうございました。

「敵者の意思」で自らの行動を決めていけない。

 タイトルに書いたことばで言いたいこと全て述べました…で横着してだめですね。

 最近の言論で「敵側に居る者」がおためごかしに“改善法”語る様子をよく見ますが、何はどうであれ「敵側」でしょ。少なくともその勢力が壊れてほしいと願っている人。その“改善法”単体では善意的にモノを述べていても、そこをキッカケに敵側を潰しにかかる行動をする。語っている言葉の周辺見てみれば簡単に馬脚表します。

 “改善案”は単に「敵側」を追い込む道具のひとつ。ついでに「敵側」からの離反者をつくる道具のひとつでしかないです。

 一昨年以来、「いまの自民党を軸にしての事大・権威主義」につかない勢力を完全に破壊しようという策動が見えていまして、ピリつく感覚をおぼえる自分がいます。例え善意であれ「敵対者の言葉」から自身の存在を委ねてはいけない、というのを述べまして項を終わります。

権威・事大主義に寄りかかり社会を壊した結果が「弱者は殺せ」容認の現況。これ、許すんか?

 安倍政権が続いていた時、拙稿では「ここで苛政を止めなければ『安倍政権時代がプロローグだった』と言わせてしまう社会になってしまう。止めなければならない」と書いてきました。
 残念ながら、その方向に進ませてしまっているのが今の社会。高齢者に対しては安楽死だ集団自決しろという言葉が喝采を持って迎えられ、障害者が施策拡充を求めれば「殺処分しろ」と言われ、“女性の駆け込み寺”となっているNPOに対しては、下卑た手法で攻撃がなされている。そして、今の社会を「より痛みのない方向に向かわせようとする運動」全般に「そんなことは無理だ出来っこない諦めろ」と石礫がぶつけられる。
 諦めないで抗い続ける、と思い直しながら歩いていますが、それが簡単でないというのはここまでに記した状況の通りです。それでも踏ん張り続けなければ、より悪くするだけですから、自分からギブアップするわけにはいかない。
 そんな中で、ここ十数年の「負け続け」に耐えられなくなって、自分の持っている武器なり、存在意義を手放しにかかろうという人も出てきました。今までやってきていることに自信がもてなくなったから、「変われば振り向いてくれるだろうと」いう安直な考えには否定的にしか見ません。
 いままで、特に民主党→立憲がそういう態度とってどうなりました。「しめしめこれで邪魔が一つ消えてくれた」と喜ばれるのがオチじゃないでしょうか。

 以上の文面から希望見いだすのは難しいでしょ。保身のため「違う考え」を壊した結果が今です。何もしなければ、「いまの路線を悪化させるしか道がない」。
 それに抗するにはどうしたらいいか。「いままで壊してきたものが、果たしてそのまま完全に打ち棄てられていいものか」を問う必要があります。
 前回記事でも書きましたが「楽に生きられるなら権力に寄りかかっての独裁でいいや」というご意見が増長しつつあります。人間弱さはつきものでしょうが、強さを求めるなら「多数派が狂うときにそれを阻める存在」という形で表す。それを〆にして今記事を終わります。

明確になったこと、2つ。

 気鋭の論者による「老害は集団自決」発言に

 障害者の施策拡充要求の裁判報道に対しての「殺処分」発言

 両者ともに乗ささる「同調者」。

 「俺たち“普通の日本人”に至らず足を引っ張るやつは死ねor殺せ」と、この手の発言が闊歩しているのがいまの社会。

 「手っ取り早く始末できる箇所をやっつければ俺たちが楽できる」と思い込む人間が増えたこと

 矛先向けられたカテゴリに実際の危害が加わる危険性が増加したこと

 この2点、明確になってしまったことを認識し直して、闘いに望むことにします。

「闘う体制」壊しやしないか。

 ある目的を目指す個々の結社と、多様な人が存在する社会と混ぜこぜにした議論が起きているのが気にかかる。窮地の焦りで、保ってきた「闘う体制」を壊さなければいいのですが。

 激しく揺さぶられる社会の中にいる以上、無縁でいられないのは認識。だども、「最後の砦」である箇所もある。それを忘れないでいただきたい。

 「変える」を「壊れる」の基にしないで。

①「俺たちの権力者」と「潰すべき弱者」に誘導された現況。軛を砕きたい②「ネガティブ思考」すら許さない権威主義者に。

1)…何かにつけて「“左”の反対にいればいい」という逆張り行為が加速している。「行きすぎじゃないか」というポイントをいくつもいくつもぶち壊して。ここまで来ると「知性そのものの破壊」すら望んでいるのか、という疑問がわく。

 昼間に触れた高市早苗の件。十数年前までなら一応であれ省みる行為はしただろう。だが、今回は「報じた赤旗が悪い」で終わり。「被害者」を演じて、赤旗を悪者にして支持者にはしゃがせている。

 近年の苛政擁護は「俺たち多数派が選んだ権力者に文句をつけるな」という権威主義でなされている一方で、ただ気にくわない対象に嫌がらせをかまし、悪に仕立てる行為もなされています。

 作り話をいくつも重ねて、いまや「敵対隣国の意を受けたなにか軍団」と“巨大化”させていますが、戯れもいい加減にしていただきますかね。

 これらの行為、所詮は「趣味を批判されたことに対する逆恨み」で、それに理由をくっつけて己の行為を正当化。最終的には「男女平等」に関わる施策は全部潰しにかかる、と。

 さすがにアフガニスタンタリバン体制レベルにまで持っていけない(「先進国」のステータスを失う)けど、ギリギリまで「気にくわない女」への復讐をする連中に、社会壊されたくない。

 「多数派に逆らう人権」も壊したがっていて、最近は「豊かさは人権がなくてもできる」「多数派でもないくせにピーピーうるさい■■■■は邪魔だから排除してしまえ」などという論もあちらこちらに見るようになりました。果たして「人権棄ててしまえ」は御自身のためになりますか。考慮を願うものです。

2)堕ちるのは止まりを知らず。上記のやり取りのなかで「今の社会にネガティブな思考を持つ者を処罰しろ」語る方が。「反対を処罰」ですらない。「ネガティブ思考を処罰」ときたものだ。

 何か?「いまの多数派に従う」しか生きる道、ないのか?これにはたまげた。

 “ネガティブなこと”聞くのは辛いか。辛いだけでなく声も出させなくし、あげくには思わせもしなくさせれば「なかったことにできて無事平穏」。

 考え無くさせることがどれだけ怖いか。こちらもご考慮お願いします。

高市早苗を「権力を振るう位置」につけてならない理由。

 赤旗高市早苗の「領収書差し替え」の件が報じられました。告発された該当の領収書を“罪から逃れるため”に差し替えるとは。

 それだけでも呆れるところを、16日に「赤旗の報道はデマ・捏造」と騙り開き直り。一方で法的措置など対抗手段は「しても無駄」などとしてしない、と。

 何ですか、2010年代、安倍晋三はじめ権力者が保身のために行った「開き直り」と「異議申立者潰し」を酷くさせたもの。それにまんまと乗った“支持者”が高市の言葉をおうむ返しして加熱する。

 安倍晋三なき今、かれら「権威主義にもたれた下衆」が旗印にしようとしているのが高市のようですが、今まで許してしまった「開き直り」をより酷い形で行おうとしている。昨秋の講演会で?と思う発言をしたが、それを「ベラベラ話した」目立ちたがりを避雷針にさせ、以降ピタリと避雷針以外の参加者証言が消えたことに怖さを覚える。

 今回も性質の悪い差し替えをして開き直り、「迷惑」呼ばわりし、赤旗を攻撃して保身を図った。どんな■■な行為をしようが“こらえて”、異議申立者を悪く見せて追及から逃れる。そのついでに申立者を潰せれば尚よし、ですか。

 こういうのを「権力施行者」にさせたら、2010年代が“前章”にされる。

 裁かれる物事はきちんと裁かれろ。

 逃したら

 より 性質悪いのくる。

 「直接手をかけに来るサッチャー」を生ませるな。