つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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「福祉問題に取り組むNPO活動潰し」に対する見解。

1)難癖でしかない“抗議者”には一切与しない。

 東京中心に若年女性の貧困救援の活動をしている「Colabo」や、貧困問題に取り組む藤田孝典氏に対し、「不正行為がある」と難癖をつけ、活動の足を止めさせる言動・行動が頻発しています。民間の社会福祉活動に対する偏見はこれまでも存在してきましたが、22年秋ごろから始まったColabo及び同関係者に向けた攻撃は醜悪なやり口で行われ、SNSでは爆発的な広がりを許しています。

 「Colabo関係者に“趣味”を批判された」ことからの逆恨みで、その恨みをColabo関係者への攻撃だけでなく、Colabo及び市井の立場から貧困救援活動をうち壊すことで晴らそうとする行為を許すわけにいきません。

2)Colabo攻撃者の狙い―「搾取からの避難をさせない」につきる。

 Colabo並びに貧困救援活動者に対する攻撃がなぜなされるか。タイトルで明け透けに書きましたが、さらに深く探れば、「貧困や性的搾取行為から逃がさないで、その状態で都合よく隷属的に扱える餌を保持し続けたい」からでないですかね。

 特に女性の性的搾取からの解放に対して「女は黙って男のエサになっていればいい」と言わんばかりの行動・言動の展開が鼻に突く。解放の立場から「フィクションだろうが性的搾取を正当化する言葉を並べるな」という抗議に対して、主催者がその意を組んで対応したことがありましたが、それがよほど気にくわなかったようで、今回の攻撃に対する出発点になった…「逆恨みも大概にしろよ」としか言い様がありません。

3)「意見として聞いてみれば」はお人好しでしかない。

 残念ながら、労働者や生活者から益を収奪し、自己責任論で異議申し立ての糸口すら与えないやり方が、いまの日本社会の主流を占めています。それとは違う「権威・収奪主義を越えた社会」の立場から行動する人・勢力は弱体化され、その弱体化した「存在」すら許さないと潰しにかかる輩が存在する。いまColaboなどを攻撃する連中。「叩き潰す」しか頭にないから、存在のすべてを犯罪視する。

 「丁寧に話しているから耳だけでも傾けて」などと“親切”的に話す方もおられますが、いまは侮辱罪のハードルが下がっているからそうしているだけですし、「潰そうとはしていない」にしても「屈服すれば潰さない」だけで、屈服させるために箸の上げ下げまで難癖つける手法とっている限りは敵として対応するまでです。

4)権威主義にヒザまついて身勝手振る舞う輩に屈せず難儀さの打開を。

 様々詭弁ろうして正当化図ろうが、攻撃者の目的は「貧困や搾取から逃げる道を塞ぐ」でしかありませんから、いま降りかかっている火の粉は打ち払って、火の粉を振り撒いている大元まで刃を突き立てる(※)。様々な方向から壊しにかかられている生存権の再確立とチンピラ手法の無効化とを果たす一歩目にしましょう。

 ここまでの長文、おつきあいいただきありがとうございました。

※→さすがに「比喩的表現」だ、くらいはわかりますね?

「Colabo」壊し「貧困救援活動」潰す輩の目的は「都合いい消耗品の確保」。

 未明や午後に書いた記述の通り、Colaboや貧困救援活動に憎悪・敵意が向けられています。向ける人たちの目論見は何ですかね。「女は俺たちに都合のいい存在であれ」ですか。

 男性の貧困救援活動者の参入で標的を「救援活動そのものの敵視」に変えたようで。「『救援活動』は全部救援ビジネスだ!」と定義つけてですか。で、これで助かる人が少なくなっても「『貧困ビジネス』やるやつが悪い」で片づけるのだろうね。

 社会福祉で「窮状」回避する道を塞いでしまえば、あとは「潰しの利く奴隷を好きに扱える」。奴隷を創出させるために社会福祉をせっせとうち壊す、そのために言いがかりでも何でも“ジャマ者”は潰します、てか。

 私の当て推量ならいいですね。

敵対関係にある者の“猫撫で声”は、その後殺すためのエサ。応じるな。

 昨晩触れた「Colabo」の問題もそうですし、もっと広く見れば「左」側の人間に対して、「つぶそうなどとはおもっていないんですよお」などと猫なで声述べているのいますが

① 対象物が心底屈服し、奴隷状態になってくれれば「つぶさない」だけで、そうならなければ「潰し続ける」。

② そうなる条件も示さないで「つぶさない」語られても所詮は虚偽、「僕は敵対者に対しても寛大」だと見せるための自慰行為。

 いずれ「支配下に置いて壊し、玩具にして二度壊す行為で快感に至るための道具」としか考えていない勢力に少しでも理解示す行為はしないでください。降っても「吸い尽くされる」だけだ。

「逆恨みの怖さ」の確認と、「それでも譲っていけない一線」―あえて「Colabo難詰案件」に見解。

 表題に「あえて」とつけました。Colaboなど貧困に対応している方々を滅多打ちにしている行為が目にあまりまして、能はないが一緒に袋叩きに遭うことはできるか、と。
 趣味を“詰られた”恨みの意趣返しに難癖つけて嫌がらせをしている、としか見えませんが、恨みのパワーは増幅されて、とうとう「貧困救援に関わる行為は“貧困ビジネス”として忌み嫌われろ」まで膨れ上がりました。人間の持つパワーについては、時折超人的なものも見せつけられて「すごい」と思ったりしますが、発揮の仕方を間違えると破滅的にもなる。
 公的機関が貧困に対して棄民的態度を露にするから、それを個々の市民が対応させようとすれば、今度はそちらを潰しますか。この社会は。

 ここまでの書き方見てお分かりと思いますが、私はColabo攻撃勢力に対しては一切耳を傾けません。何をどう繕い、正当と見せかけようが、所詮は嫌がらせ以外の何者でもないでしょ。そして、やろうとしていることは「貧困救援活動の撲滅」でしかない。
 生活レベルが全般的に下がり、「紙一重」の怒りの向け先が「紙一重までに生活レベルを壊してくれた権力者」でなく「何とか保護を受けられた」人に向けられる。安楽死推進派もそうだな。「だから死ね(「安楽死しろ」などと言葉だけは丁寧だが)」と語る。苛政進めて上澄みごくごく美味しく飲んでいる連中は大笑い。勝手に潰してくれるから。
 ここまでの約10年も大概「壊されてきた」と思っていましたが、まだまだ壊し足りないと思っている方が居られるようです。それか、苦しみのうっ積晴らしを「蹴りやすい箇所」に向けるか。いずれ、そろそろストップかけないと虐殺が起きる。どう対処すればいいかまでは思いつかないが、少なくとも「Colabo敵対勢力」には与しない。うん十年かけていまの状態まで持ってこさせてしまったので、それを覆す取り組みを…で2023年も抗い続けます。

打ちのめされてもまた立ちあがる。何度でも―2022年を終えるにあたり。(3媒体共通)

1)2022年を終えるにあたり

 まずは、2022年もなんとか完走できることとなりました。歳を重ねる度に現れる変調に、社会の狭量化を目の当たりにして、都度都度「この先もこの場に居られるだろうか」と不安になりましたが、一方で「存在することの何が悪い」と厚かましく構えて、時々の欠点を越えて、年も越えることになった次第です。

 

2)社会活動―権威基に踏みにじる行為をはらっていく

 個々人の人権と幸福追求権を元にして苦痛が少なくなる社会を目指して活動をして来ましたが、社会の流れを決める政治の場に立つ人を選ぶ選挙で「力ずくの権威主義」を振るう勢力に打ち勝つことができず、世界的にもコロナ感染からくるストレスを八つ当たり的に解消しようとする行為があちらこちらで見られました。単に「強者の専横」が行われるだけでなく、その反撃力を根っこからへし折ろうとするようなやり口で。

 この一連の動きは、ババ抜きよろしく「逃げ切れない人間に苦しさを押し付ける」形で為されていますが…さて、「自分が食らわなければいい」のか、「次は自分だから、と不条理に抵抗する」のか、どちらのスタンスとりましょうか。

 私ゃ、後の方を選択します。「あいつババ踏んだザマァ」とニタつく輩が嫌いで。

 

3)社会人野球―まずは「何の不安なく野球場に居る」から

 シーズン通しての感想・話かたりは越年で。来年は新球場でどういう物語が紡がれるか楽しみにしたいのですが、私個人としては表題通り「不安無しに野球場に行く」ことを取り戻したい。

 コロナ感染の影響は、スポーツにも現れ、その接し方も2019年前までと大きく変わり、社会人野球で言うと応援活動ができなくなったし、観戦ルールや「接し方」も激しく変わりました。必要な対応はあるべきものですが、その競技にいる人がはじかれないでいることができる場であってほしいと願うものです。

 

4)今回写真に込めた「生き様」。

 今回は二枚、写真を入れています。

 一枚は夜明けの模様。どうも2023年元旦は空模様悪そうなので太陽が出ようか?というものを入れました。これで快晴なら良し、とします。

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 もう一枚は、自分の心境と重なる光景だと思った箇所があったのでそこを。目の前にある高速道路は、近くにいる人の多くが歩めている“一般的な人生”。そこからは離れている自分がいますが、自分の歩くところにも道はある。羨ましく思ったりはしますが、マイナスの感情持ったところでどうしようもない以上、自身の道を懸命に歩くことにするし、何かあれば助力できる位置にはいようと。その心情を込めた(←後付けでな)一枚です。

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 2022年も大変お世話になりました。2023年もこんな調子で歩きますので、おつきあいよろしくお願いします。

 

              伊東  勉

埼玉飯能市の事件は他人事じゃないです。それでも自分が“堕ちない”のは。

 年末進行もあるので、Facebookとブログ両方共通記述となります。

 埼玉県飯能市で起きた事件。私の親戚も住んでるもので…以外にも他人ごとじゃない思いを持ちました。Facebook長くご覧なってる方は承知と思いますが、私も40代後半独身ですし、仕事も「拾ってくれた人」がいるから“無職”ではなく、社会との関わりをつないでる。そういう存在がなかったら自分もどうなっていたか。去年の大阪ガソリン放火事件といい、自分はたまたま「引っかかる」ことができたから「他人に危害を加える位置」にいなくてすんだけど、一歩間違えば自分があの位置にいた、という自覚は持っています。故に「犯人叩っ切れ」の意見に与せない。

 ここ3年のコロナ禍で、対話の仕方を忘れてしまっている自分がいます。ただ、一番身近な兄貴とは2010年代より話をするようになった。兄貴にしても「もうちょっと勉が…」いう部分はあると思いますが、それでも兄貴は「できないことは言わない」で対応してくれている。俺が中学あたりに伊東家が離散したときから別居の期間が長くて、90年代に4年間一緒に住んでいたときは尖るものがあって、それは心臓の病気で内陸に戻った2010年代も同じで。去年あたりかな。やっとつきあい方が認識できるようになった。

 本当はもう少し、10代、20代の時のように「他の人の世話焼き」もしたいところですが、心身の状況がそれには至らず、自分の生存を守るだけが精一杯で、なかなか他の人に「与える」という行動ができない。そのなかで「社会で生きていく最低限」だけは保持しているところです。

 Facebookの自己紹介ページを更新しました。

 『自分がどんな状態になっても、他の人にエール贈れる存在でいたい』

 それを維持したまま、人生走りきります。

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 今回の写真は東京ドーム近くにあったなんとも気の抜けた石細工です。最初は落書きかと思いましたが、これで作品そのものです。ホッと微笑。

安楽死推進派の敵として。

 今年後半から増殖してしまっているのが「安楽死推進」のご意見。反対派の意見については「納得より罵倒」を基礎に屁理屈で切って棄て「安楽死に反対する奴は邪魔」と言い続ければやがて陥落すると“期待”して、塗りつぶしにかかっている。いま安楽死を煽動している輩は、「邪魔者を駆除しろ」目的の賛成論者にあからさまな好意的反応を示しているのもそこから、でしょう。

 推進派反対論者に向き合うスタイルも「生きたい奴のジャマはしない」と「存在がジャマだから死を選択するのが正しい」と別れているが、所詮は「殺処分的安楽死」推進の立場には変わりない五十歩百歩。私が与することはない。

 一応こんなんでも47年生きてきて、それなりに世の中を見てきたつもり。昔、口べらしやら間引きした者は、それなりに後ろめたさを覚えていたが、今の安楽死推進する連中はそういうのがない。平気で「無駄だから死ね」と言える者が推進の中心にいる。ほっといたら暴走して「虐殺政策」が復活してしまう。そういう社会になったら真っ先に殺される部類にいる人間としては止めにかからなければなんないでしょ。

 社会的弱者が弱者と扱われず、それまで普通に暮らしてきた人たちの生活水準が切り下げられて、「社会福祉受けられるだけ弱者の方がまだマシだ」という状態に追いやられ、憎悪が向けられている。そこから「社会保障対象者」は死ね、安楽死という形で“楽に死なせてやる”というおぞましい考えで安楽死推進がなされてる、と。こんな要求に絶対に従わない。治療の結果としてそれを終了するというのは考える余地もあるし今でもできることだけども、ここまで述べたな類の殺人教唆は断固お断り。そんな推進派には嫌われ憎まれる存在で居続けようと思います。

 さて、今年もあっという間に残り一週間切りました。皆様お体はばかりお気をつけてお過ごしください。

クリスマス…は無縁ですが、誰かを思いやれる社会には持っていきたい。

 数年前からクリスマスとは無縁の生活をしています。12月24・25日といえば「ラジオチャリティミュージックソンの日」と思うことにしてまして。ま、どっちみち「誰かが誰かに益と想いを贈る日」には違いないようで。

 だけども、「誰かに益を贈る」行為を嫌がる人は少なくない。「ナンデオレノ税金ヲ〜〜ニクレテヤラナキャナンナインダ」という言葉を多く聞く。年金や生活保護といった社会保障受給者も目の敵にされてますね。生存権の保証というのは目に入らないようだ。ああ、「税支出を減らすために年金&生活保護受給者は安楽死処分に」は問題外で。

 併せて「正当に報酬を受けとる権利」に鈍感でいるという。メガ的富裕層の「報酬を支払わず益を溜め込み」には何の抵抗も示さず自ら苦しんで、その苦しさを紛らわせるために援護が必要な人を蹴りつける行為は、「愚か」以外に言いようがありません。「まともに生きていれば」などというが、その足場の破壊行為を止めずに語る様子には冷たい視線しかくれてやるものはありません。

 権威主義に打ち負かされて「“持つ者”のわがまま」に振り回される社会、そろそろ抜け出さないと、優生思想で次々生存を刈り取られる。それを止めに行きます。

安倍政権の罪―「味方以外は敵」を徹底したがゆえに、反対(カウンター)勢力を壊したこと。

 投稿できる条件があるときは1日複数回の投稿をします。

 安倍政権以前、少なくとも小渕内閣あたりまでは、カウンター勢力の存在も「世の中に在るもの」として扱われ、全く無下にされることは年に一度くらいの「対立法案」いがいはあまり見ませんでした。

 1999年の森政権→2001年の小泉政権と各々に牽強主義的な趣向が目立ちはじめ、決定的な亀裂が入ったのは第一次、第二次安倍政権の行った施策でした。特に第二次安倍政権時にネットサポーターズや“Dappi”種の拡散者を利用して「反対派(カウンター)の存在を貶める行為」をこれでもか、と行った行為は、ある種の存在を絶滅に持っていき、その思考を持つ少なくない人を壊してしまいました。

 どのように壊したか。猫などで「何でもかんでも噛みついてしまう」のがいますね。反対派の少なくない人をその種にさせて、社会から除こうとしたし、している。これで更に力が弱くなれば、「実力行使」にさえ来かねない。

 昨晩の項で「変化はありうるが…」と書きました。様々に「“左”も変われ」言われますが、私から見ればひとつの箇所を投げ棄てて降伏しろ、と言われているようでのめません。この部分慎重にあたりながら、「壊れたもの」を作り直す。自分に近いところにいる「先達」は泰然と構えて、信念もって行動している。倣うことにします。

「変化」という名で、防衛線を断ち切る行為があちこちに。「日本はひとつ」にはさせない。

 ここ2年の国政選挙で結果を出すことができなかったことで大局的な視点を失い、目の前のエサを欲しがり、急進的に何かを変えようとする動きをあちこちに見る。

 風見鶏のごとく「見栄え」さえ良ければいい、というやり方は俺は嫌いだ。

 今月に入って、朝日新聞の元記者や政治番組司会者が相次いで共産党の改名を訴えている。後者は維新勢力を作った人を抱き込んでその意見を発している。この様子を見た人が「立憲民主党はあらかた壊し尽くしたから、今度は共産党を壊そうとしている」と感想を述べているが、同感だ。去年の秋から感じていた「今の左派と言われる勢力を壊しつくし、日本=一つの考えしかない社会に持って行こうとする力が働いている。

 コロナ感染の拡大や、大国による侵略行為によってかきたてられる不安を悪用して「ある種の存在」を潰す。そういう心理が「足手まとい」を始末したがる行為につながる。私ね敵対対象の安楽死推進意見派もその一つと見ます。

 自分はどこまで戦え、どこまで頑張れるか。物事変わるということはあり得るものですが、その変える方向が「これまでの社会で乗り越えてきたはずの悪弊」を蘇らせるのでは「何なんだ」としか。最後の一線には踏ん張らないと、という思いでいます。