つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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実情を露し、対応することが政治の役目。生活保護&PCR抑止論に抗す。

 まず最初に。二日前に陰謀論にまみれて愚論撒き散らしていた輩を批判する記事を書きましたが、その後の論を見ると「鶏が先か卵が先か」分かりませんが、他者をなめくさる一文が並んでいまして、論以前の論理性知らないのか、と気分害する思いでいます。20日にかけて加熱するものと思いますがどこかで気づいていただきたいですね。

 さて、今回のタイトルを「実情を露し、対応するのが政治の役目」と記しました。副題にした生活保護とPCR検査について抑止する論がかなり蔓延っていますね。リソースだなんだを理由にしていますが、それが何生むか言えば「ゆるぐねえ状況を救う道をなくす」でしかありません。当事者にとっても、社会全体にとっても。
 当人がゆるぐなくなるのは当然として、社会全体としても、「その道に陥ってしまう癖」を正す道を防いでしまうのですよ。生活保護も受給者になる人の目線で制度改正図っていただきたいし、PCR・コロナ対策も社会の見栄とか「財政健全化」でなく、個々人が納得いく生き方ができるように対応さす。
 ここ数年の「選民思想への強烈な誘引」が「抗っても無駄」→「弱者は死ね」の棄民思考につながっている。その状態になったら真っ先に殺される対象になる人間としては、くそ下らねえ思考を蹴り飛ばしていきる道を手繰る。2021年もこの立場で生きていきます。
 おつきあいいただきありがとうございました。

「バカは相手しない」が原則だがあえて釘は刺す。

 当初は別なお題から本格記述スタートしよう思いましたが、権威主義を基礎にくだらないこと語る愚か者に釘は刺しとかないとならないでしょう。

 アメリカ大統領選出に関わり、トランプ氏側支持者が実力行使に打って出て、議会に乱入し死者まで出るという報道を目にしました。Qアノンと呼ばれる方々がトランプ氏の牽強主義的なやり方に救いを“見出だし”、手段選ばずに社会を壊しにかかっている。

 そんで何ですか。『トランプ大統領が日本政府にアメリカ合衆国政府転覆罪の容疑で中共のスパイ・協力者をアメリカ合衆国に送還するように、通知した』『犯罪人引渡し条約を締結しており拒否できません』等と言い出し『その対象は2万人』とか言い出しています。

 アホか、と。

 その指示が本当だったらもはや「気狂い」状態に陥っているでしょう。他国の選挙を経て選ばれた議員を身勝手な基準で処断しようなんざまともな人ならやれないでしょうな。いくら菅政権だろうがこんな言いがかりにホイホイ乗るような行為はできませんね。実行したらそれこそ人権否定の売国奴です。引き渡し条約云々も言いがかりの類いにしか見えません。

 これまでQアノンに類似した盲目的安倍政権支持者は、弁護士懲戒請求の悪用、入国管理制度改訂を悪用して各々弁護士、在日外国籍者への攻撃をしました。該当者への憎悪もさることながら「安倍政権のもとなら行きすぎてもお目こぼししてくれる」という権威主義ですか。それが暴走の理由なってんでしょうが「ふざけんのも大概にしろや」としか言いようがありません。

 私みたいな阿呆でも先の一文の穴を見ることができるのだから…本来なら打ち捨ててフェードアウトするのが筋ですが、そうできる確実な保障はありません。一方で、「懲戒請求」も「入管通報」も社会運動の力でそれを是認させることだけは撥ね付けてきました。先の「送還」も彼らには気持ちいいのか知りませんが、まともな国なら言いがかりははねつけるのは当然の話です。

 「トランプさんでなければ中国に支配される」を理由にすればなにやってもいいわけないし、現にやっていることは「独裁的な政治手法」でしかない。中国をこわがって、中国同様の国・社会にしてしまう。そこら辺を「ふざけんのも〜」と見ています。

 理性を忘れないで生きましょうね、と述べて項を終わります。おつきあいいただきありがとうございました。

2021年。「優生思想・権威主義」に酔うゲスを叩き潰す。

 2021年も始まりました。おつきあいよろしくお願いします。
 年を越すかというときに、陽気な活動スタイルで注目していた清水ただし議員のコロナ感染を伝え聞きました。コロナの病状は私が2018年に経験した病状(1ヶ月伏せる)とも類似しているので、どのくらいしんどいかは想像がつきます。数日前は羽田議員の急逝もあり、また急激な悪化もありうる形態なのでなんとしても越えていただきたいです。

 さて、ここ8年の安倍→菅内閣の継続で一番ぶっ壊されたのが「権力強者が持たなければならない“最低限”」。10世紀代半ばまでの社会じゃあるまいし、権力者が好き勝手振る舞っていいわきゃないのですが、好き勝手振る舞っているのが今の安倍→菅政権。更にそのスタイルに寄りかかって「ゲス・外道上等」と非強者側を踏みつける輩が増殖し、一定の力を持つに至った。そうやって身勝手できる状況を維持したいから、「変えたい」思う勢力対しては存在から否定する。分かりやすく言えば「することなすこと全てを否定する。理屈はどうとでも」。
 先に述べた清水ただし議員の一件についても、「国会議員で感染したのは野党の羽田、清水だけ」→「与党に文句言う野党が感染してる」、更に都合のいい写真を引っ張り出して「ほうら野党議員はだらしない」と結論づけたまとめ記事をつくり、それを「一連の構図」として提示して野党・左翼を叩かせる。
 この手の攻撃者は言いがかりとしかいい様のないことばを際限なく言い続け、それを当たり前にさせてしまったが故に取り返しのつかない部分を拡げてしまった。結果産み出されたのは「深い断層」…話し合いが成立しなくなった。「そろそろ限界点だろう」、が幾度破られてきたことか。それでも諦めたら「これまでが前章」にさせられるから、どんな■■浴びようが耐えて頑張るしかなかったわけです。

 権力者に寄れば何しても構わないという「権威主義」。
 自己の思想以外を「反日」とし、抹殺図る「優生思想」。
 どんなに朽ち果てても、以上を用いての抹殺行為に屈するわけにはいきません。そんなわけで2021年、人生46周目を駆けてまいります。長文おつきあいいただきありがとうございました。

2020年12月31日に。存在を失わずに歩き続けます。【2020年まとめ・後】

 年末わたくたしながら、とりあえず必要なことはして落ち着いたところです。

 今年はコビッド19・新型コロナに振り回された1年に。私自身はコロナによる影響を受けづらい位置にいたため直接のそれはありませんでしたが、それ以外の箇所で基礎疾患発症、精神疾患の悪化、そして母の死と重なり、去年末から持ってしまった人間不振もプラスされてどの部分に置いても人の中に居るのが辛くなってしまいました。「どうしても」の行事・試合では必死に調整して場に現れましたが、それで精一杯。自分に任されている最低限をクリアするだけで精一杯でした。

 それでも自分はまだいなくなるわけにいかないし、居る以上は何らかの役割は果たしたい、更に言えば「存在を嫌がる方々の望みを叶えたくない」という一念で必死に存在を維持し続けました。来年はなんとか「できることを多くする」状態をつくれるように努めます。

 2021年も目標は『完走』。おつきあいよろしくお願いします。

                  伊東  勉

「母を送り出した経緯」と「優生思想との闘い」。【2020年まとめ前】

 大まとめの記事前半です。
 今年一番の出来事は、母の逝去でした。来年は80年ぶりに母のいない年になります。
 後から聞いた話ですが、母は私との面会後ぐっすり眠り、翌朝に心停止してなくなったとのこと。本当に文字通り、最後に会話したのは私だった。それまで数日間、体が痛んで眠れなかったけど、居た時間ずっと体を解して、休ませることができたことについては後悔はありません。
 母が致命に至るよう病気を罹患したのは16年前。以降は透析をしながら日々を生き、2014年以降は内蔵ガンや心臓の不調、血管の石灰化と度重なる手術を経て、都度都度万が一の時どうするか、介護をどうするか、などのの確認をしながら、日々を過ごし、最期を迎えました。終わってみれば…ですが、大変でした。その過程の中で荒れたこともかなりありましたから。それでも、家族で必死に「ベストな着地」を模索し、追求した。過程のどれが抜けてもこうならなかったのです。

 それを踏まえて。
 生前の母と私でよく出てきたワードが「俺たちは“無駄飯食い”だよな」。母は前述の通り、私も11年前からの心筋梗塞で月にかかる医療費は高く、それを社会保障で補って何とか存在している状況。自己責任論や優生思想をとなえる方からは「退場」を要求される存在です。大体にして私が生まれる過程も「九分九厘堕胎を逆ギレして拒否」でしたから、いま維新とか小林よしのりや永江一石らを支持している人から見れば「寿命だ死ね」言いたくなるでしょうね。
 
 何でそんな愚言聞いてやらなければならないんですか。
 
 お賢い方からは「なら対案出せさもなくば死を受け入れろ」と言われますが、何でそんなのに対案出さないとならないのでしょうか。「NO!」しか言いませんよ。
 いま小林よしのり、永江一石、田端信太郎らが撒き散らしている「弱者の死は寿命」論、ここ十年で一気に跋扈している「優生思想拡大」の中の一コマ。強制的に殺しにかかれないから、当事者を弱らせ、回りは「殺していい」という空気を醸成させて、真綿で首を絞めるように始末にかかる。
 それに対して了解してやるほど私は人良くないですよ。
 これまでの人生で培ったモノを全部棄てて狂暴化することを幾度考えたか。それをやってしまったら生きることが許されなくなるから何度も何度もろ過してアホやらんように努めていますが、同じ状況の人がいつまでもってくれますか?ずっと「殺せる立場にいれる」と思わないでいただきたい。
 それを強く警告し、項を終わります。

小林よしのり、永江一石などの「社会的弱者は死ね」を受け入れない。それを肯定したら私は死ななければならないから。

 表題を見て「威しか」と思われる方もおられるでしょう。結論から言えば「その通り」。小林よしのりや永江一石、田端なんとかが言い放っていることばは、どんなに丁寧な単語で装飾されても結論は「高齢者や障害者、基礎疾患者持ちは邪魔だから死ね」でしかありません。そこに「自分が苦しいのは“足手まとい”がいるからだ」と結論づけた信奉者が撒き散らす。醜悪な光景で吐き気を催しますね。

 対象者がみんな素直に死ぬこと…言葉を変えましょう。殺されてくれるのを受け入れてくれるとお思いですか。

 ここ数年、生活難の論議を「高齢者や障害者など足手まといがいるから」とし、その方々を始末することで問題を解決できるという思考が跋扈。さらに自身の手は汚したくないから「死んだやつは寿命なんだ」と諦めをひたすら誘引する。その結果何を生むか言えば「社会的弱者への攻撃性」であり「当事者の“自決”及び“自決の容認”」です。

 小林、永江、田端らは一方にある「富裕層による暴力的な収奪主義的行動」は寛容な態度をとる。富裕層を守ってお目こぼしを得たいのか知りませんが醜いものです。いずれ、私はこんな輩の言うことに従う気は全くありません。この輩の言うことに屈するなら、私は存在する意味はない。どんなに拙くとも「優生主義を許さない立場で生きる」ことが私の存在する意味。それを奪いたければ殺す気で来ることですね。

 小林、永江、田端、その信奉者。

 俺を殺せるか。

 俺を殺すことができるか。

 殺さなければ止まりませんよ。

 以上申し述べて項を終わります。

「支援活動は違反」思うなら黙って告発しろ。それは妨害でしかない。

 年末になり、コロナ・コビット19による影響をどーにかすんべ、ということで支援活動が各地で行われています。一人でも多く難儀さから抜け出てほしいと願います。

 さて、この行動に対して「政党による支援活動は違反だ」と叫ぶ方が出てきまして。Twitterタイムラインでは松崎いたる(Twitterアカウント itallmatuzaki)とTwitterアカウントHidenori_drの二氏が言い放っています。

 そんなに違法だと言うならTwitterで喚かないで黙って選挙管理委員会に訴えなさい。こうやって「支援活動は違反だ」とわめく行為は「助かる道を塞ぐ」ものでしかない。松崎は以前の台風災害でも同様のことを言い放っていましたが…ルール■■なのか、離党した恨みか知りませんが唾棄しか覚える感情はありません。

 くさるなら一人でくされ。

 邪魔するな。

 それだけ述べておきます。

産経新聞「無戸籍者餓死」記事は「叩かせる犬笛」。その意図は壊す。

 マスコミ報道だけではありませんが、物事の評価の仕方では「行動のみを基に評価する」のが肝心と考えています。それは社会活動に参画して間もない頃に身につけたもので、一種の柱になっています。

 しかし他の行動があまりに酷く、単発的に方向性の違う記事が出されても疑いしかかけられない事案もあります。産経新聞が過日「独占」として出した無戸籍者親子の一件がそれです。

 普段は国家にひざまつけ、それを妨害する存在はデマカセ咬ましてでもぶっ叩く、貧困問題でも10数年前の派遣村報道で妨害記事を書いた産経が、それよりモラル退化した現状で「無戸籍者」を取り上げたのは、厳しい現状を知らしめるためではなく、「無戸籍者は“あちら側”だ」としてぶっ叩かせる犬笛でしかないのでは、としか思いません。

 案の定、無戸籍に至った状況を考慮しない“右でも左でもない”“普通の日本人”様が当該者をなぶる記述をしていました。「無戸籍になるのがおかしい」と。当たり前の多数者は気楽でいいですね。社会にある間隙に陥った方に「当たり前の〜」「普通の〜」と言ってツバ吐きかけることができるから。

 産経新聞が出した、ということはこういう意図でしかない。在日外国籍者を日本海に投げ棄てろと語る連中は、無戸籍者をどこに投げ棄てる気ですかね。現れたら現状をどう変えていくか…少なくともこーいう輩の玩具にはさせない、玩具にする■■は潰す―人間が持ってしまう悪意があるにせよ―ことで、生きられる幅を増やせればと考えます。

ボタンの掛け違いから生じた醜態で“存在”壊されたかない。

 金曜日夜に、一度作りはじめてハッとしてやめた記事制作がありました。今記事は頭を冷やしての再制作です。

 私の人生の主体は社会人野球と社会活動。これまでは妥結点を探り行動していましたが、「体調などの事情で試合帯同を回避する」ケースができました。これまででと違い、どうしても無理な案件ができたための処置です。
 別な方面でも。今年に入ってからある市を通過するのが苦痛になり。「交通の大動脈」だから避けられませんが、その自治体の文字を見るだけで憎悪に似た嫌悪感を抱くようになりました。「その自治体」に居る方々には何の責任もありませんが、その一部に居る者の愚行・醜態が甚だしく、それを利用せんとする輩の策動も重なって…で、どうにも。こじれる必要がないものをボタンの掛け違いを繰り返して悪化させ、見苦しさを拡大させている様子に「なんなのや!」という感情を持ち、先に記した思いを抱くものです。

 今記事は、ある意味私の狭量さを示すものにもなりますが、狭量言われようと自身を守らざるを得ない事情もあります。ひとつの見解として見ていただくことを願い、項を終わります。

年末にかけての記事製作予定(案)。

 12月も18日。あと10日であれもこれもは無理なので各々にまとめ的な記事製作を行います。

 当項では「社会活動」「伊東自身」の1年をまとめた雑感を記す予定です。もちろん飛び込み的な記事製作もありますので、記事が現れたら見てやってください。