社会活動をしている中で、残念ながら「転向」は起きる。それは思想信条の自由の一形態だからやむを得ない部分があります。ただ、その際にとった行動をどう評価するかもまた自由であるはずです。
過日、強制性交の裁判で、「嫌よゝゝも好きのうち」を根拠のひとつとして無罪判決を言い渡した事案がありました。裁判長は飯島健太郎といいましたか。いわゆる「レイプ神話」-レイプしても「実は~~という(都合のいい)許される言い訳」を正当化の理屈に持ってきた飯島の判断は、以降の同種事件の裁判に悪影響を及ぼす危険性があります。ぶっちゃけ言えば事実上のレイプ合法化につながらないか、という意味で。
そういうことで飯島の判断には厳しい意見が出てますが、一方で女性保護・フェミニズム的な政策や運動を快く思わない人たちが、群馬県草津町議の虚偽報告や大物芸人/日本代表サッカー選手の性犯罪裁判を利用して飯島の判断を正当化。さらには被害者に対するセカンドレイプを行っている状況もあります。
ここで何故「転落者」が出てくるかと言うと…かつては護憲派の憲法学者として活動していた石埼学が、最近は人権的・左翼的な活動を相次いで誹謗。この一件に関しても「裁判官が判断したことを擁護する」として事実上性犯罪行為を擁護する姿勢をとりました。
ここ数年、左翼・人権主義的な活動から脱落した人が、己のそれまでを精算するため、“反対側の立ち位置で認められよう”と過剰に攻撃的になる様子を目にしています。いままでの代表例では“こたつぬこ”木下ちがやが私怨からケチをつける様子が見えていますがそういう木下・石埼と同じような行動をとる人が増えている。
長年「結果を出す」ことができていないからそれなりの批判などを受けることはやむを得ないと考えていますが、それとは別の私的な恨みからそういう攻撃に走る/「私怨を晴らす」行為に利用されるのにはイラつきを覚えます。そしてそのような攻撃が物事の改善に作用したことはありません。それに削られるのはうんざりです。以上