つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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伊吹文明「自称弱者」論について。

 最近は左翼や共産党の逆に立てばそれで正解だ、と宣う人がいて、今回の自称弱者〜と言ってのけた伊吹文明の発言も「当然の話だ」と言う方が目立ちます。そこには立場の優位性、劣勢を鑑みての「影響」がどう出るか、という目線がありません。

 いま、社会保障受給者に対する目線は総じて酷しいものとなっています。社会保障を受けること自体が「迷惑だ」と。「本当に必要な人は受ければいい」と申し訳程度に記したところで、所詮は言い訳、逃げ道でしかありません。こましゃくれたくそ野郎のオモチャじゃねえんだよ。

 伊吹の発言、前記事でも記しましたが弱者を殺しかねない一言。どう「本当に必要な〜」言い繕おうが、判定者が“クロ”言えばクロとされ、そこにろくでなしの有象無象が尾ひれ羽ひれガンガンつけまくって拡げにかかる。「やましいところがなければ堂々としろ」言われても、意図的に生殺与奪の基準ずらされる怖さをぬぐえるはずもありません。

 本来は権力者に対してこそ厳しい目線が向けられるべきところを、そっちは「多数決の“勝者”」あるいは「権力者だろうが同じ人間」と片づけ、一方で非多数派あるいは多数派異議を申す人に対して「そっちこそ“権力者”“特権”持つ人」と殴りつける。目愚さい、としかいいようありません。私は「中庸」には立たない人間なもので、この手の論には与せず、多数意見あるいは“普通”という名で踏みつけにかかる方を睨む存在で居続けることにします。

 おつきあいいただきありがとうございました。

伊吹「憲法12条・自助」「自称弱者」発言。弱者を殺しかねない妄言。

 憲法12条が説いているのは憲法が示す基本的人権を守り、時の権力者に壊されないよう維持し続ける努力を、と述べているのであって、「自助努力」を押しつけるのに使うものではありません。

 そこに「自称弱者が出てきたら社会が成り立たない」という言葉をかぶしてくれました。12条の無理解以上にむごい、ある意味で死人出しかねない言葉です。ただでさえ自己責任論が跋扈してあれやこれや難癖つけられる、というのが現状なのに、そこに権力の側にいる人間が「自称弱者」と「攻撃をしていい“犬笛”」を吹く。

 底抜けをどこまでやる気だ?

 もういい加減「怒らずに対案」で済まされない位置に来ていることをご認識いただきたいものですね。とりあえず以上。

「“都構想”大阪市廃止」進める勢力がしたいのは「身勝手に金を使いたい」。なんで私は反対票が上回ることを願う。

 維新勢力、ひいては自公政権、それを支える富裕層…この国の支配層言われる方々は「手前の使える金を拡げてそれをいいように使いたい」てのが思考回路で、15年くらい前の自治体合併も基本その考えで行った。

 それでもまだ足りない、と思うからでしょうか、今度は市を廃止して、その分の税収入を大阪府に集めて、好き勝手できる巾を拡げようとしている。いまの社会でも富裕層・強者からの所得再分配はおこなわれず、むしろ貧困層からの収奪・逆再分配が起きてやしないか。

 維新など推進派が配布した宣伝物に「あれもこれもできる」書いてから、見えるか見えないかギリギリの箇所で「裁量による」と書き添えていたらしい。なるほど、逆をしても「裁量だから」で逃げますか。やることがチンピラと変わりなし。

 安倍→菅の自公政権、橋下ら維新勢力の伸長というか増長ですか。軌を一にして市井の生活が厳しくなっている、そういう施策が叩きつけられている。今後の政治戦は「何されても仕方ないですね」を跳ね返す行動が必要です。あえて言や「汝の価値に目覚めたれ」ってな行動。気づいていただける方が出るように、懸命に努めます。

10月図書館巡り(1)―Facebook連動記事

 コロナウイルス・コビッド19に神経悩ます日々が続きます。その中で私は一週間休みをとり、野球の資料を得るために各地の図書館を回ってきました。

 いつもは一般道を使うのを基本にしてますが、出発時に予想外の動悸をおぼえ、休んでからの出発となったので高速を使わざるを得ませんでした。以前は滞在期間中国会図書館通いづめという日程を組めましたが、現在同図書館は入場制限・抽選制。それを補うために県立クラスの図書館を回ってきましたが、特に関東圏は滞在時間が限られ―おおまか3時間―それを加味しての行動に。図書館によっては新聞資料閲覧をクローズしている箇所も多く、予定の変更を余儀なくされました。

 当然道中も気を遣うことになり、水や衛生道具は岩手で買い込み、以降の食事はドライブスルーの弁当店で調達。どうしてもトイレに寄らざるを得ないときはゴム手+アルコール消毒+ウェットティッシュで対応するなど、持てる知識を総動員して行動。当初の動悸以外は基本無事に過ごせました。

 今回は基礎的な報告で、資料収集でひとつ(別ブログで)、道中から感じたことをひとつ記します。該当記事が出たら見てやってください。おつきあいいただきありがとうございました。

「存在する価値のないもの」と殺しに来るなら。

 底抜けは止まることなく。

 ナチス掌握下のドイツが「価値のない命を断つ」という名目で特定の条件にある人を虐殺し、近年の日本では同じ趣旨を吐いた植松なる者が障害者を虐殺した。それらの行為を正当化する言説として使われる「価値の〜」には軽蔑の目線をもって接してきた。

 ところがだ。

 その言葉を意図も容易く、しかも「排除」の意思を隠さずに使う者があちらこちらに。最近では「メンタリストDaigo」を名乗る者が、低所得者など今の社会でうまく生きられない人を嘲り笑い、それが批判されると「存在する価値のないもの」と評し攻撃的な態度をむき出しにする。

 自身の発言力を利用して「価値の〜」広めて何がしたい。今の社会、どっかで発火したら虐殺行為がいとも簡単に行われるのではないか。安倍→菅政権ならそれを容認してくれるだろう、と。植松の件がまさにそれでしたな。

 特に日本社会では性質悪いことに「殺してもいい状態」までギリギリと責めて、耐えかねた人が自分から死を選ぶことで「自己責任」と突き放す―それに悦びを見出だそうとする輩が一定数存在する。そうして能面かぶって殺しに来るなら、当方だけがお行儀よくする必要はないと考えます。

 「簡単に殺されてくれる」と思うな。

 以上述べて項を終えます。おつきあいいただきありがとうございました。

「古い」言われようがダブルワークの推奨に疑問しか覚えない。

 今日は。図書館めぐりも明日を残すのみとなりました。私の同行程あるあるで「最初にある程度の準備するも、行ってみて当初計画とのズレが生じる→都度都度計画変更を行う」てのがありまして、そのついでに必須の作業を見失ってしまいそうになりました。いやああぶないあぶない。
 普段、通常の社会人の半分しか稼働能力ない人間がギリギリ振り絞って行動するので、体力なぞ残りません。今日はたまたま時間残して何もすることがなくなったので一筆入れています。

 今日の記述主題は「ダブルワーク」。私からしてみれば「どっち付かずでかつ労働者を壊すものでしかない」と考えます。たしかに、人間は多様な顔を―家庭の中、職場、社会的な場等々―持っていますが、そさ更に複数の役割を持たせることはどっち付かず〜と。まして、職場の賃金出す能力が落ちたのをそこで補わせるのはどーなんですか、と思います。
 そもそもとして、一つ一つの仕事の価値を考えたら、そさ集中できる環境が必要なはずで、それをわざわざ壊すまねを社会が要求するのはなんなんだ、と。色々軽んじられてて面白くないです。

 この間にも、自民党の反動施策を「これしかない」という言葉で押し付ける様子が ありまして。昨日の中曽根元首相の葬儀とか。葬儀に対する批判すべてを「」日本人なら死者に鞭打たない」で片付けようとしますが、そこに個々人が受けた仕打ちなどを考慮しないでマウントとって怒鳴りつける行為には「またか」という思いでいます。今日も拙稿お読みいただきありがとうございました。

墓穴を掘るのが楽しいか―労働問題裁判の結果に「ざまあ」語る人に。

 多数者でないものは罪だ、という考察を記した記事を見たのは10日前くらいですか。その記事にも記されていた「“寄らば大樹の陰”すら生ぬるい思考回路」に唸ることしかできない思い抱いていましたが、程なくそれすら生ぬるかった、という行為を目の当たりに。

 アルバイトなど非正規労働者の労働条件を争った裁判で、最高裁でともに労働者側が敗れる結果叩きつけられましたが、それに対しての反応が…酷い通り越して「墓穴を勤勉に掘り続ける」様子に気が遠くなりました。

 なぜそこまで踏んづけられる?今のような「非正規・バイト労働」が当たり前になったからか?そもそも労働者の雇用条件良化は“悪”なのか?

 たぶん、これらの疑問すべて蹴られるでしょう。「たかが非正規・バイトごときが」といきがる方々には。でも私は足を止めません。何でもかんでも「中立から」ってできないんだよ。とりあえずこれ述べておきます。

「赤狩りをやれ」と狂喜乱舞されている方に。

 人間の弱さを知らないと、愚行はとことんエスカレートするものでして。特に「赤狩りレッドパージ共産党員を根こそぎ(以下略)」とはしゃがれている方は、一歩ベクトルがずれれば虐殺行為すらやらかす危険性がある。1960年代のインドネシア虐殺では、在野の反共産党人氏が虐殺に加担し、うん十年後の映画で嬉々としてその模様を実現してさえいた。その再来やらかすのでは、と危惧を覚えます。

 私は、頭にゃ来るが、実際の抹殺行為までしようと考えない。その物事をなした結果どうなるか、で審判は下ると考えますで。しかし、それを「共産党の逆が〜」で片付けるのであれば、「結果」なんてどーなってもいい、〜〜蹴られればいいで済ませられる。

 それは勘弁願いたいですね。

 これで「障害者は安楽死しろ」合わせて2つですか。私が殺される可能性のある事項は。

 素直に殺される気はない。

 それは述べておきます。

悦楽的に首を絞めにかかる者―「共産党から離れろ」渡邉哲也発言に。

 渡邉哲也アメリカの入管政策をもって「共産党員はアメリカに入国できない。だから共産党員からは離れろ」とTwitterで発言しています。以前同氏から吊し上げを食った身としては「また言い出したか」と白眼視しかおぼえませんが、障るのは他国の入管政策でなく「共産党員と関係を断て」と述べている部分。これ、存在に対する虐殺行為の第一歩なんですね。

 どの勢力にしてもある種の緊張関係をぶった切ると容易に虐殺行為に走ります。権威・権力に寄りかかり、敵と認識した勢力に憎悪を募らせる行為はその準備段階とも。「空気」充満させ着火すれば容易に虐殺に走る。インドネシア9・30事件なぞは「権力に寄った攻撃的な支持者」も虐殺に加担しましたからね。

 私はぶっざけ共産主義者ですが、他所の同主義者がした「権力押さえて従わせる」行為には眉ひそめる思いも。それが故の「支持多数得ての革命」で進めてやと行動してますが、ある種の与党支持者・アンチ左翼の「俺たちは多数者だ、そうでなく逆らうやつは始末しろ」を当然視する言動には危機感を覚えます。

 渡邉や渡邉と同じスタンスをとる方々は「事実のべただけ」と言うのでしょうが、基礎的な生存権すら奪う行為は意見の論評越えた加害行為としか見ません。以上述べて項を終わります。