つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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8月15日―大日本帝国では存在が許されなかった者より。

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(写真は大船渡駅前の様子)
 8月15日。
 75年前、大日本帝国が行っていた戦争を終える昭和天皇の放送があった日。8月になると戦争に関する報道が増え「教訓をくみ取る機会が増えます。「何、こんなときばり」なんて声もありますが、思い返す機会があること自体は重要かつ貴重なモノではないでしょうか。近年は間違った方に教訓を持っていき、「帝国再興」語る方もいるようですが、それは権力施行者以外は「使い棄ての道具」にさせられるもの。戦争犠牲者が敗色濃厚になった1945年以降急増したのは「権力者以外は使い棄ての道具」路線の結果と言えるでしょう。
 その路線を繰り返しますか。

 15日、母の納骨を済ませました。終戦時父は生後4日、母は4歳。母も戦争に翻弄された一人で実父は早くになくなり(原因不詳)実母(私から見れば祖母)は動員で出稼ぎをせざるを得ず、母は祖母の実家で育てられたとのこと。父も兄二人が戦時中になくす経験をしました。
 母や祖母がかねてから述べていたのは「戦争があったら勉や俺らはは役立たずとして棄てられる存在にさせられる」。最近、安楽死尊厳死の議論が賛成派の意向を踏んだ形で強化されていますが、この手の議論がはびこる状況は戦争のような全体主義的志向が幅を利かすときに作り出されます。それが故に、私はかつての大日本帝国を思い返すようなやり方を認められない。この立ち位置を維持してこれからも終点まで生きていきます。

「死んでいい」で考え埋めると「生きるため」の推進力を失わす―安楽死・尊厳死賛成者の議論に覚える不安。

 2010年代から走り始めた安楽死尊厳死賛同の議論。やまゆり園虐殺事件やALS患者殺人事件もこの空気が作り出したと言っていいでしょう。賛成者の中にいる制度反対者に対する攻撃性には鼻白むものがあります。意見の差異とは別の何かをぶつけられていて正直不愉快です。挙げ句の果てにはなんですか、「どうせお前ら賛成派に回る」「その時は『反対していたよな』で嘲笑ってやる」なんてご意見も。
 あなた、何のためにこの議論してんの。
 大西つねき氏や維新勢力による「議論しよう」と併せて賛成者がかなり強気に出ていますが、ご意見見てみると「どうせ福祉拡充はならないし、そうする財源も人でもいない。なら死んだ方がマシだ」が出発点に。「自分自身もそうなったら殺されてやる」を経て、『それでも生きてやる』という思いを削られ、屈折した形で「(結論としての)『死ね』という同調圧力」に加わってしまってる。いまの攻撃的な賛成者の行動は『それでも生きてやる』の思いをベキベキへし折っているものだ、というのは指摘しておきます。

 自分も「生き抜く」を最大の目標にしていますが、「生きてていいのか」という念に際悩まされることはあります。ただでさえ後退的に生きているところに、存在そのものを自分で消し去る行為はしたかない。やせ我慢言われようが「ライン」はひいて生きています。それがなぜか言えばここまで記した行為が呼び起こす「存在の否定が許される社会は、存在するための有為な行為が否定される」から。かいつまめば「簡単に人殺す社会は生きづらい」。とりあえずその線で踏ん張れる状態ではあるので、それすら邪魔しにかかる勢力とはけんかするとします。
 別カテゴリに集中していたのでしばらくこちらの方記述しないでいました。おつきあいいただきありがとうございました。

香港運動者逮捕は他山の石ではない。我が身として捉えます。

 8月6日広島に原爆投下されて75年、8月9日長崎に原爆投下されて75年。定型文を朗読に来た方以外は人間が犯しがちな誤り、それが生み出した惨事の歴史を認識し、それを繰り返さないと誓った日となりました。

 人間が犯しがちな誤り。権力の肥大化も然りで、あちこちの国で施政者による圧迫行為が目立ちます。香港では民主活動者や中国寄りでないマスコミ主宰者を逮捕する事態も。これは「あーん中共が」で済まされないものがあるんですね。日本にしても安倍政権が復帰後に何から手をつけたか言えばマスコミ・報道の掌握。あからさまな弾圧というよりは真綿で首を絞めるように手なずけました。まだ反撃する能力があり“それ以上”は許していませんが、これ以上力を削がれたら…この数年で「まだマシ」だった箇所も壊されている様子を見ると“これ以上”の危惧も覚えざるをえません。

 無論、そんな状況を好ましいと思いませんで、「生きやすい違う道もあるしそれはつくっていけますよ」というのを示していきます。数日ぶりの投稿でしたがおつきあいいただきありがとうございました。

75回目の“8・6”。

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 惨状を忘れさせない

 戦争がむごいものだ、というのを忘れさせない

 当事者から渡された「教訓」のバトンは

 「戦争を起こさせない」

 「人間の弱さをくんで社会を営む」

 実質の行動で果たしていきます。

教科書採択から見る世相。気を入れ直す箇所と自信持っていい箇所。

 前回の教科書採択では反動右翼的な立ち位置をとる育鵬社の侵略を許してしまいました。80年代後半からの攻撃がそれを許す土壌をつくってしまったことに歯噛みする思いでいました。

 しかし、今回の採択では逆転する箇所も。「受験に耐えられない」ところから来た部分もありますが、見直しされたことには安堵。ただ、「ほとんどの教科書が育鵬社に近づいてるのでは」という危惧もあります。欠点乗り越える取り組みはこっからです。

維新勢力の「尊厳死議論」の正体。殺される側にいる人間として看過しない。

「維新、尊厳死PT設置へ」jiji.com
 (記事中より)舩後靖彦参院議員が生きる権利の大切さを訴えるコメントを公表したことに関し、(馬場維新幹事長は)『議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している。非常に残念だ』…」
 多くの言葉要らねえ。
 「殺し」に来る者全員に告ぐ。
 黙って殺されてくれると思うな。
 「ジャマ者は踏み潰せばいい」ですむほど社会は簡単じゃないことを思い知るがいい。
 とりあえず悪意を拡散するクズには制裁与えるとしますか。「尊厳ある死」議論の体をとった優生施策推進は叩き潰す。

生きることに難儀するのはその通りですが…それと殺処分は別な話。

 予想外に早く車が再起不能になりまして、その代わりを探すのに四苦八苦しています。いやあ参った参った(泣)

 それにしても、安楽死議論ですか。

 賛成者と反対者で認識だの前提が違うのはその通りでしょうが、「どうせ価値がない&無駄な存在だから死んでもいいよな」と醸成される空気にはほとほとまいります。特に「お前も死のうぜ」という感じの論立てにはついていきたかありません。

 生存権うち壊す政治で無気力に陥るのも宜かるかな思いますが、レミングスやらぐっすんおよよ(両ゲームともキャラクタを自ら操作できない)じゃあるまいし自殺願望を拡げないでくださいますか、と警告申し上げます。

 まして、安楽死・殺処分の議論利用して“コストカット”するのは絶対にやめろ。以上です。

やまゆり園事件から4年。増殖する「除去は仕方ない」を打ち払う。

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 4年、経ちました。

 2010年代は強化された自己責任論、社会福祉の弱体化を正当化するための「生産性」や「安楽死論議―その極致がこのやまゆり園虐殺事件でした。

 この愚行にたいして社会がどう見ているか。残念ながら「そういう事件が起きてもやむを得ない」という空気が濃い、と思っています。批判する意見はありますが、「それは仕方ない」と認識させる記事はそれ以上に。財政や人員などの社会ソース、“生産性”充たさない人への強い風当たり、などなど。

 私はいわゆる「尊厳死」ですか。無理な延命処置はせずなだらかに終わらせる。それには何の異論もありません。しかし、そさ「邪魔者はどけ」とばかりの安楽死論議聞かされると、それはいずれ日本の優生施策、ナチスドイツのT4作戦といったやり方が再現されるのではないか、という危惧を持ちます。敵をつくってバッシングすることで支持を得るスタンスをとる維新や一部の“れいわ”勢力が、切り棄ての方向で「議論を始めよう」と言い出しているのも看過できません。

 安倍政権設立当初に「障害者切り棄ての方向で社会が動き出している」という警告が出されていました。7年経ち、それが力を持っていることに歯がゆい思いをもちます。今の安楽死議論は社会福祉向上を放棄させるものでもあるので、「まともに生きられる社会」にするためには議論の主流・哲学を変える必要があります。

 やまゆり園事件を肯定させる社会にしないことをもって敵討ちにする。諦めずに歩きます。

1000キロ走った終末+おまけ。

 土曜日は久慈で行われた「東日本大震災復興9年のつどい」に行きました。例年3月に行われる行事ですが、コロナ禍もあり延期となったものです。影響は払拭されたわけでなく、議事進行などが例年の6割の時間。その中で久慈市長の遠藤氏による講演、商工業者、事業者兼篤志家、観光協会、ボランティアグループからの報告もあり、実のつまった行事になりました。

 ただ、今週末は混んだ日程に。定期の大会はともかく、他二つは例年早春・晩春に行われるものが延期となったもの、3日で1000キロ車走らせましたよ。

 22日)自宅→花泉

 23日)花泉→(さすがに高速使う)→盛岡→一関

 24日)一関→自宅→久慈(葛巻経由)

 25日)久慈→自宅(宮古・釜石経由)

 各々に前泊していなければ行事対応できませんでした。たぶん明日は布団から離れることはできないでしょう。高校野球勝戦はラジオで聴きます。

 ほんでも「厳しくなる日程」を覚悟して臨んだので、「無事に完遂」を意識して行動した結果、何ぼかずつ体力を浮かすことができたので…ま、これからも意識していきます。

PS→各行事でコロナ感染対策がなされていましたが

①体温計測で「34℃」!当然再計測しましたが、別な意味で病院行かなきゃなんないですね(笑)

②見かけた光景。

Aさん「お久しぶりです」

Dさん「いやいやどうも」

 \固く暑い握手!/

2人「あ、しまった」「ソーシャルディスタンスソーシャルディスタンス」

 …と携帯消毒液で消毒していました。なはは。

==========

おまけ→帰宅後、早朝勤途中に左前タイヤ足回り重大故障。対人対物の加害はなく、交通量少ない箇所だったのは幸いでしたが、車の買い換え作業は早くせざるを得ません…。

安楽死という名の粛清を認めたら俺は生きてならない―同議論について。

 今週、自民党元議員家族等による嘱託殺人が報じられました。普段は「犯罪は個々の人間の行動で、家族まで叩くのは間違いだ」という位置にいる私ですが、この一件に関してはその見方を外します。

 何故か。

 自民党の中心にいる勢力が、普段からしている行為はなんだ?「歴史修正」と並んで「収奪資本主義」。そのじゃまになる「生産性の無い者」を打ち棄てる政治なり行動をしてきましたね。その位置で安穏として来た輩が、「個人個人は別です」で逃げんじゃねえよ。その施策に協力した、と見る方が自然と違いますか。ましてや容疑者は病気関係者を誹謗する思考も持っていたわけだから「無関係」で逃げんな、という思いは弱めることできません。そこまでお人好しじゃねえ。

 もっと言いますか。

 俺はこのような行為認めたら、直ぐに自分の命を断たなければなんない。何故かは言わせるな。「おろせ」に抗して生まれた人間が…自分の存在意義を否定する行動すんなら存在する意味無いだろ。この手の話になると積極的に「死ね」投げつけるやつがいるが、寿命きたら黙っていなくなるからそれまでは生きるのじゃますんな!以上。