4年、経ちました。
2010年代は強化された自己責任論、社会福祉の弱体化を正当化するための「生産性」や「安楽死」論議―その極致がこのやまゆり園虐殺事件でした。
この愚行にたいして社会がどう見ているか。残念ながら「そういう事件が起きてもやむを得ない」という空気が濃い、と思っています。批判する意見はありますが、「それは仕方ない」と認識させる記事はそれ以上に。財政や人員などの社会ソース、“生産性”充たさない人への強い風当たり、などなど。
私はいわゆる「尊厳死」ですか。無理な延命処置はせずなだらかに終わらせる。それには何の異論もありません。しかし、そさ「邪魔者はどけ」とばかりの安楽死論議聞かされると、それはいずれ日本の優生施策、ナチスドイツのT4作戦といったやり方が再現されるのではないか、という危惧を持ちます。敵をつくってバッシングすることで支持を得るスタンスをとる維新や一部の“れいわ”勢力が、切り棄ての方向で「議論を始めよう」と言い出しているのも看過できません。
安倍政権設立当初に「障害者切り棄ての方向で社会が動き出している」という警告が出されていました。7年経ち、それが力を持っていることに歯がゆい思いをもちます。今の安楽死議論は社会福祉向上を放棄させるものでもあるので、「まともに生きられる社会」にするためには議論の主流・哲学を変える必要があります。
やまゆり園事件を肯定させる社会にしないことをもって敵討ちにする。諦めずに歩きます。