つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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鉄道・交通機関、社会保障…“公的保障”を憎む方々に。

 数日前。生活保護申請に付き添った市議会議員に対し懲罰を課そうとした議長の行動に「暴走を止める見地からの仮処分」がなされた報道に対し、「議員がついていくのは“圧力”」「本当に必要なら申請者が頑張ればいい」などというご意見がついた。官権と一市民の力関係もわからずに…いや、わかっていてあえてこう述べるのが今の風潮か。

 災害による公共交通機関の破壊に対して復旧を要請する様子に対しても「JR様は民間営利企業。復旧してもらいたければお前ら―要請する側―が血を流せや」とネチネチ語るのを当たり前に見かけるようになった。

 この二つだけでも「助けを求める行動を“イビりのきっかけ”にする輩」が増殖しているな、と思わされる。災害のときに「共産党員は救助されたければ自衛隊にひざまつくかさもなければ――」なんてご意見も当たり前に見かける。よらば大樹で多数派に駆け込んだ自分を正当化するために、「多数派にいないやつをなぐりつけて心の安定」を図る様子を見るのはほとほと疲れる。

 失敗したら即・死というのを当たり前の社会にしたいか?個々人の自覚を促すなんて優しいものじゃない、単なる切り落とし行為にかき回されるのはもうごめんだ。ひとまずこれを表明しておきます。

「見下したい対象」持たなければ気が済まない連中のざれ言を聞いてやる必要があるのか―「ウトロ」「関東大震災」に見る構図。

 しばらく所用をこなすのに必死で当方の記事を書く余力を失っていました。無事終えて帰ってきましたので今日から復活します。

 京都ウトロ地区の在日朝鮮人の施設に放火した「名前で呼ぶ価値のない輩」に対する裁判があり、「輩」には懲役4年の実刑判決が下されました。有罪・実刑になったのは当然と考えるので、これ以上に思うことはありません。あとは「本人次第」。
 障るのは、この判決が出て尚、「輩」の主張をそのままに原告を叩く者が多くいる状況。「輩」もヤフコメを見て憎悪を募らせたようだが、その予備軍はわんさかといる。「放火は悪いが“不法行為”はもっと悪い」という論立てをして。二つの理由でその意思に唾棄をおぼえる。
 ひとつ。「不法状態」のみに着目して、その状態に持っていかれたことに対する思いが無い。もっと突っ込んで言えば「公平社会原則」というやつですか。社会環境の変容やそこにいる人の意思で社会の歪みがある人々に押っつけられることに目を向けない。そこを無視して「不法はいけない」なんてのは無邪気に過ぎる。
 もうひとつは「対象が朝鮮人だから気軽に殴れる」こと。今年に入ってからサッカーで日本代表が韓国代表を圧倒する試合が多くなり、ネットメディアがそれに関しての煽り記事を掲載→コメント欄で見下す発言が続出、という状態に「あ゛」と思わざるを得ない。「いつからそんな逆上せたこと語れる位置にいるんだ?」とも。韓国スポーツのエリート主義には辟易とするが、「俺たち日本人様が偉くて“韓国・朝鮮人”は下等種族」という立場からはモノを見たくはない。
 このような朝鮮人憎悪が産み出した事象が「関東大震災時の虐殺事件」。今年は99年目ですか。それを反省してきたから戦後の災害ではその類の事件を起こさずに済んできたが、関東大震災の件すら忘れてしまいたいと思う意思が露になっている様子に空寒さを覚える。はっきり言えば「またやりかねない」と。そのくらいの状態にあることを認識していただきたいと願います。

 最近、社会活動の中でも「多数派」に迎合し、「俺たち“普通の人”のために“足手まとい”は切り落とせ※」というご意見が幅を利かせはじめています。いまの多数者がそこに目を向けることがなく、権力者は切り捨てたがる状況で、俺等までが切り棄てる立場になったらどうするの?そこは厳しく見ていきます。
 おつきあいいただきありがとうございました。
 
※近年ではこの表現は控えるべきものとして扱われますが「これでしか表現しようのないもの」と認識しますのであえて記しました。ご了承ください。

「統一協会と自民党の関係」を厳しく見る理由。「飽きた」で逃がすな。

 多忙が重なり、しばらく社会活動の記事製作を絶っていました。精神的な渋滞モードに入っていまして、何から書きゃいいのか、で。

 統一協会勝共連合のやり口と権力者とのつながりが報じられていますが、どーにもその両者並びに自民党の面々が「余裕面」かましている様子に障るものがありまして。

 統一協会の行ってきた反社会的な収奪行為、どういう思惑であれ社会変革をさせないがための反共産党てき思想、それを進めた結果が、「権力者様とその周りだけおいしく、残りはその餌でしかない日本社会」なわけで、なぜそんな勢力に寛容に相対してやらなければならないのですか。

 余裕面している理由ですか。権力の私物化として行われてきた行為の追及を尽く無力化させてきたのが「無限白ばくれ→“飽き”を誘引して追及を止めさせる(下位転換として『追求する側に嫌悪感を植え付ける』)」てなとこですか。恥もプライドもなくこうすれば逃げられる、ということを学ばせてしまったのが悔しい。

 以上2点をポイントにこの問題を見ておくとします。お付き合いいただきありがとうございました。

寄り道しながら、「個人の存在」と「8・15と平和」考えてみた。

 8月15日。

 大日本帝国が起こした戦争が終わった日からは77回、私の人生では47回目の経験となります。テレビやラジオでは戦争で何が行われてきたのかを語られ、同時に今いま起きてしまっているロシアによる侵略戦争についても触れられています。大上段にはしませんが、上段から中段くらいの話を下記に。

   ==============

 三国志やら戦国時代を題材にしたゲームがありますね。著名キャラクター以外の一般兵は「ザコ」扱いにされてキャラクターのひと振りで存在を消されてしまいますが、その「ザコ」一体一体に実社会のように人生あって、家族もあって云々、とを考えるようになってから、その類のゲームには興味が向かなくなりました。

 歴史を学ぶ際にはすぐキーポイントとなる人物を中心に語られることが多く、各々の時代にいる市井の場から見たものは多くはないなぁ…と長らく思っていましたが、最近私が読んだ漫画「雑兵めし物語」が「市井の場」に突き当たりました。著者の重野なおきさんは私とほぼ同年代四コマ漫画家。ここ10年くらいは織田信長黒田官兵衛、真田一族などを中心とした戦国時代に焦点をあてて作品を描いていますが、昨年から江戸時代の書物書を基に市井の場からとらえた表題作を連載。権力者や施政者は各々にもっている意思を基に「社会を動か」そうとしますが、圧倒的多数の人は「日々を懸命に生きて、飯を食う」が第一義だ、という様子が描かれています。

 「飯を食う、が第一義」…ですか。その“第一義”の手段、当時は各々の大名(など施政者)が生殺与奪権握って、領民をコントロールしていた。今はさしずめ、労働者の賃金を経営者(+与する勢力)が…てな感覚で。ほんでも、一人一人の「市井の人」はそれにやられっぱなしだったか言えばそうでなかった。一人ひとりの力は弱かろうが、広く大きな連帯で大きな壁にして、社会の不条理を越えてきた。

 要は。

 俺たち市民の側からも戦争を起こさせないと視点の社会をつくる力はある、ということ。ある時代では戦争などの“不条理”を止められなかったかもしれないが、その反省をもとに「同じことは起こさない」行動はできる。

 戦争の問題でもそうです。「権力者の権利」から「原則は禁止」まで持ってきたのは、戦争を嫌がった市民の力がつくったものです。ロシアのプーチンは国民有権者の口をふさいでああいう愚行に走ったわけだから、「戦争を望む人間にとって疎ましい存在で居続ける」ことを誓い、歩いていきます。

仕事6合目/「放送部の熱意」目の当たりに。

(1)社会活動に関して。今日でようやく6割程度進みましたが、どうやら月並みなお盆は過ごせそうになく。お盆は大体14から16なんでしょうが、仕事もあるし来週16から通常になるのでどうも例年以上にそれを感じます。

(2)金曜日の夜はFacebookのタイムライン何やら“バルス”祭りが行われてるようですが、私はTBSラジオの「アシタノカレッジ」武田砂鉄MCの番組を聴いていました。

 今日は昼間の「セッション」も含めて学校放送部に焦点が当てられ、放送部の「空気」やどんな活動をしているのかを聴くことができました。文科系の部活動(部活に在する人、ではない)とは関わりを持ってなかったので…無知、というか「未知」はまだあるよ、と思い知らされた一日でした。今日もお付き合いいただきありがとうございました。

安全運転、誓い新たに/不戦の誓い、虚仮にするな。

1)車のエンジンに異常を来たし、車を変えざるを得なくなりました。いまは納車に苦労するという話も聞きますが、私のは「貨物車の量産型」というのも手伝い一ヶ月で納車。近隣二回は「まさか」で廃車になっていたので、教訓を生かして安全運転により努めようと思います。

2)社会情勢。周りを見ると“きな臭い動き”が見えます。正直イラつきもします。

 が。

 自分等まで「攻撃者の目線」でいてはならないな、と。平和を考えるイベントが各地で行われていますが、そこにつくコメントが辛らつ。不戦平和を要求する行為を虚仮にするものが目立つ。

 何か。これまで不戦平和を要求するのを目的として行われてきた行事を「先軍応援」に変えろと?

 アメリカ首脳の行動に中国軍の動き、苛つきますが、まだ不戦状態に持っていける余地はありますね?というか、戦争何ざして「いまある人類の宿題」できなくしている手間なんてないのよ。戦争状態にして「ご破算に〜」ってか。冗談じゃねえ。あくまでも「不戦の状態でいろ」ということばかり要求するものです。

 岩手内陸地方は時おり雨がパラつくぐらいですが、近隣の秋田・青森では低気圧が停滞して災害級の大雨になっています。各所で起きている現象なのでお気をつけて無事であることを願います。おつきあいいただきありがとうございました。

盆前進行入り。特に第一週はハードです。

 八月上旬はカレンダーの並びも手伝って前半10日間が“盆前進行”です。七月下旬はある程度記事書けましたが、特に今週は厳しいですね。ラジオ番組で熱帯夜が伝えられます。不快指数がだだ上がりです。皆様お気をつけてお過ごしください。

維新議員の「定数削減は大阪参考に」―共産党潰しを拡げるわけにいかない。

 大阪府大阪市の定数削減。良しと見る方もいますが
①首長・行政サイドと議員議会・市民サイドは本来別個の存在で一定の緊張関係を必要とするもの。
②維新の行う定数削減は、首長行政サイドと議会サイド両方の力を握り続けることを前提とし、議会の力を弱めることでなれ合い的一体化→緊張関係の消滅を生じさせる。
③次善策として選挙区の合区で「拾える意見の幅を拡げる」方法もあるが、小選挙区制度で自身らが力を握り続けていたいためにそれを拒否する。
 要は、維新勢力以外の意思は大阪府政、大阪市政には反映できていないし、させない枠組みを維新は「ウケのいい定数削減」を使って行っているわけです。そして、今年決めた定数削減は「共産党立憲民主党議員のいる選挙区」を対象にしているから、意図は明らかでしょう。
 
 自分(維新)らが力を持っている内に仇なす勢力を壊してしまう
 
 参院選後、アンチリベラルの方々は「共産党や立憲が当選できている定数6の東京区は2〜3に分区してしまえ」と語っていましたね。いずれ「小選挙区制度を地方選挙でも行い、左翼やリベラルに存在を与えない」やり方を拡げるというわけですから、それは&それも「“ひとつの考え”以外認めない社会にしてしまう」行為は止めさせていただきます。

「“あるひとつ”以外はモノを言えなくする社会」がお望みか―最近の議論から。

 火曜日。自身のポジションを多数派に起き、多数派に居ることを以て他者を簡単に攻撃できると思い込んだ輩が、非多数派側にいて社会にモノを申す人の出自をあげ、攻撃を呼び込む犬笛行為をはたらくと、次の日には殺害された元最高権力者を盾にして「分断行為をやめろ(=批判をするな)」というネット記事が二件相次いで出され。
 昨冬から拙稿で出している警告―「あるひとつの考え以外を社会から排除する」行為が、参院選を経て悪意が加わって強化されている。後者の記事を書いた二人は「無哲学で手前が金を得られればいい」と考えるタイプの売文屋のようだ。
 真綿で首を絞められるように
 お前の発言は無駄だ
 お前の意思は無駄だ
 お前の行為を無駄だ
 お前の存在は無駄だ
 と。
 とにかく「黙らせる」こと
 「黙らせる」ことを意識させようとする。
 そうして黙らされた人間は
 それまでの自分を否定し
 新しい環境に身を置こうとするあまりに
 過剰適応気味に「それまでの自分」を壊す
 
 そういうのがあちこちに起きて、自民党とその類似物以外の存在でいることがしんどくなった。自分はそっから外れたら生きている価値ないからそこで頑張るしかない。
 けども、自分一人だけではどうしようもないから色々工夫をもって社会に対峙しなきゃならないのも確かです。その表れとは…東京の山添さんとか、岩手の身近なところでも見えるので、できたとっかかりを掴んでいくことが必要だなと。
 そして、「踏ん張れる時に踏ん張る」。ただし、踏ん張り方は「文頭に記した連中に屈することではない」ということは強く申し上げておきます。

やまゆり園で起きた惨事から6年。

 やまゆり園事件があってから6年になりましたか。時間過ぎるのがあっという間で、しかも事件で起きてしまった傷はより深まった、としか言いようがなく。

 10年前。民主党政権から自民党政権に変わるあたりに、障害者活動の集まりで「障害者を社会から排除する空気が濃くなっている」という報告がなされていたのを目にした。社会権が確立されてからこっち、改善の方向に進んでいた障害者の人権拡充はそのまま続くだろうと思っていたけども、その話は暗雲のように垂れ込めて、10年経ってどうなったか言えば「甘かった」としか言いようのない状態に。

 そう思わされたトピックは「やまゆり園」。障害者に対して存在価値を認めない「名前で呼ぶ価値のない者」が19人の命を奪った事件。そういうことを許してしまう空気にさせてしまった自分の力不足をのろった。どうすれば良かったのかという自分への問いかけはずっと続いている。

 「名前で呼ぶ価値のない者」は当時の最高権力者に対し、加害の許可と自らの免罪を要求していた。本来であれば、最高権力者は「止めるメッセージ」を出さなければならないはずだと思っていたが

 当時の最高権力者は

 そういうメッセージを発さなかった

 治安維持と犯人の逮捕に関しての指示は出したが

 「障害者嫌悪をやめさせる」方面でのメッセージは出さなかった

 ふざけんなあなたの役割は何なんだ

 政治的に立ち位置を超えた怒りをもった

 政策的立ち位置で別れるのは仕方がないが

 人間性まで疑わざるを得ない行為に

 こういう「雑な扱い」に、そこら辺あたりまでの数年間までとは質の違う怒りと不信感が植えついた。

 6年。

 「多数派の役に立たねえ■■■■は存在を奪われて当然だ―という空気が深まって、それに抗おうとする人たちの力は削がれる状況が続いている。

 これで諦めさせられてしまうのか。

 そいつはお断りだ。

 これで膝を屈したら、俺が生きる価値はない。

 生まれてきた経緯を考えたら諦めるわけにいかない。

 生きている限り、難儀できる。

 「難儀させる物事」はいつかはらう。

 終点に着くまでは、ただ歩み続けます。

         2021年7月26日 伊東  勉