植松某が障害者19人の命を奪った「やまゆり園事件」から7年経過しました。植松が一度は裁判を終わらしておいてから「再審請求」していることには愉快でない思いを持ちますが止めようという気は起きません。植松がばらまいた「〜〜は殺してもいい」という免罪符を取り除くのに精一杯なもので。
障害者施策が苛烈になりそうだ、というのをつかんだのが11年前、この事件が起きた後、「自分が楽に生きたいから“無駄”な存在は殺してしまえ」という類いの意見が蔓延るようになってきたのは、拙稿でことある毎に書いてきました。私のようにそれに異議を申し立てる者に対してはもれなく「きれーごとに侵されたお花畑」という言葉が振りかけられますが、怒る前に空しくなりますね。その言葉投げつける者に従うならば、私ゃ生まれる前に死んでなきゃならないモノで。でも現実にはこうして生まれてきて、周りにはかなりお手数をかけながらも社会の中に生きて、自我を持つに至った。こんな私を始末することができるのか?
ただ。しばらく前ならこれにうなずく人間は多くなかったけど、最近はうなずく人間も出てきた。しかも自らの手は汚したくなく「偉大な権力者様の善導でゴミは一掃される」てな感じの言い方で正当化を図る。たしかにな、反撃能力は低いから、簡単に自分を勝ちに判定できる対象とみなして高飛車に踏みに来るのでしょうが、そういう考えが当たり前にされた日には、いずれご自身が踏まれる対象になる。
人間社会はこれまで幾多の「不条理」を越えて、人権も表面化・確立化させてきました。その中に「障害者であっても人権ある一人の人間」として扱われてきた。それを維持するのも簡単じゃないのは承知ですが、簡単に投げ捨てるほど日本社会は脆くなりましたか(憤怒)優勢思想にかこつけて維新が、「アメリカの圧力に基づいての軍事費増」にかこつけて岸田政権が弱者の存在を失わす社会を作ろうとしています。植松の愚行をより“スマート”に行い、存在を踏みに来るのであれば、それには抗う。
やまゆり園事件の犠牲になった方に報いるのはそれしかない、で歩むのみです。