つなげ“希”動力-伊東勉のストラグル日記。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

数の力で圧そうが何れは“審判”下る/キズのリカバリーが「強者迎合」で「与しない者を踏む」行為でなされるとは、ね。

1)入管法改悪案と軍需産業支援法案、衆議院を通過させられました。

 「圧倒的多数に対して戦うことは無駄だから、条件闘争で譲歩もらう」やり方が正しいのか。通過させられた悪法はいずれ歴史の審判にさらさせる。そのためにも「反対の意思」示すれっきとした態度が必要でした。

 この後も軍拡財源法案や医療保険料の引き上げなど悪政・苛政を進める法案があります。それに抵抗していく…のは当然の話です。

2)ここ10年来進められた“対抗勢力潰し”は、対抗勢力の意思を無効化するために「何でも否定する」。共産党に対して「何でも反対」言いますが、本当の意味の「何でも反対」を毎日幾層的に突きつけられています。対抗言論ツイートには何百も何重も続く腐す言葉。その中には職業的に行っているとしか思えないアカウントも。

 その手の行動をとる人みていると、「一度折れた人間」が少なくありません。「折れる」ことそのものは誰にでも起き得るものですが、折れたことをリカバリーするために自身を限りなく“権力者”に迎合させる行為をとる人が増えた。

 別な角度から。安倍政権が「一度傷ついた人」をやたら登用していたじゃないですか。その登用した人は、盲目的に「安倍政権を持ち上げる」か「対抗勢力を壊し続けた」。恩を着せて走狗にするってか。これもやたら多く存在し、「社会を壊す」ことを許してしまいました。

 その壊れっぷりは限度をなくし、昨日の記事で記した“サル”“聖地”“人民”叩きに続いて、とうとう「真面目に語る」こと自体を否定的に扱う記述も載るに至りました。「左翼を潰す」どころか社会潰す気か、と。

 このとおりの事象は起きていますが、当方はただ真摯に意思を示し続けるだけです。「真面目さも棄てちまえ」は断固としてお断りし、項を終わります。