世の非多数者側にいると、自分の近い箇所にいる人が「別サイド」にいることを多く目にすることがあり、その度々絶望感に陥ったりします。ほんでも「他者には他者の自我がある」のは当然で、絶望しきって可能性をゼロにしてしまったら元も子もないから色々刻み分ける。当たり前ですが認識として。
維新勢力や自民牽強主義者のように「口調強くして大きい声」で脅してしまえば、違う意見持つ人を圧倒することができて、それを何回も繰り返せば無力化してくれる、たまに無力化してくれないのもいるけどもそれは“気違い”として処分してしまえばいい―ざっと見たところ、こんな空気流れていますか。
物量・ 質量大きければそういう圧力は効く。物理的もそうですが、言論空間においてもそういう現実があるのは否定しません。
ただ、その“物量”に負けて沈黙してしまったら、いまの多数派が生み出す理不尽の前に難儀している人を放って殺すことになる。自分たちが「踏まれている」から踏んでる足を除けろ言ってるだけですが、「非多数者ごときがうるせえ たかが踏んでるだけだ黙って耐えろ」と踏み続ける行為が増えている。それが嫌だから、その手の行動には抵抗をし続け、「多数者だから何してもいい」には異議あり、という意志を示し続けることにしています。
この意思表示、時々しておかないと「力を持つがゆえに増長する者」はすぐ忘れる。常連講読者(なんているのかこんな些末なアカウントに)の皆様にはくどくてすみませんがどうかご勘弁ください。