つなげ“希”動力-伊東勉のストラグル日記。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

東日本大震災から10年を経て。【3媒体共通】

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 3月11日。

 皆様はいかがお過ごしになられたでしょうか。私は通常の仕事を終えてから午後大船渡に入りました。2時半からの1時間は「10年前に自分が大船渡にいたらどういう行動をとっていたか」をなぞる行動を。その後は思い向くまま大船渡町内を歩いていました。コロナ感染が広まってからは亡き母の所用以外で大船渡に来ることはなかったので、「大船渡の空気を吸っていたい」と、それだけで町を歩いていたわけです。

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1)「10年前に『逃げ切れたか』」…10年前、母のわけ分からない電話から大船渡行きを断念した私。居住地でぼやっとしてたら大地震。生前、母に何であの日だけ用事もなく、趣味のパチンコにつれていけ、でもなく呼びつけたのか訪ねてみましたが、本人もはぐらかすでなく「わからない」としか言わないまま、20年7月に永眠しました。

 知人からは「大船渡にいれば間違いなくお前は死んでいる」と言われ、自分も自身のことはわかるからみんなの言う言葉は受け止めた一方で、「自分があの日大船渡にいたら」…でのしかかってるものはあります。

 今の自分であれば―基礎疾患を二つ持ちでも―10年前よりは動けるようになっているので、10年越しの避難行動(実証実験)してみた結果、15分程で加茂神社まで逃げることができました。

 

 ただ。

 それは今現在の話です。

 様々な経過を経た今現在の。

 

 10年前のあの時に自分が逃げ切れたかどうか言えば、正直逃げきれなかったと思います。地震のパニックに、情報得られないままの「平常性バイアス」考えると…そこらは図表をご覧ください。

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2)10年経って。新しい形でまちづくり・地域づくりは進められました。

 だけども10、11日のラジオ番組やインターネット番組で、知己の識者が述べていたことは「その街の中で生活の不安がなく生きていける場所になっているか&生きていける社会制度になっているか」の疑問、問いかけがほとんどでした。

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 ハードは揃った。

 でも、その町に住み、生き続けられない。それでは本末転倒じゃないかと。10年間の政治、大筋は、市井に向き合った政治をしてるかといえば否定的に見さざるを得ません。具体的内容などについては様々な勉強会などで再確認した上で記すことにしますが、断片的に感じるものだけでも「しっかりせなあかんよ」と言わざるを得ないのです。

3)私は大震災の敵討ちを何に求めたかといえば「津波被害、1度目は直接の波で、2度目はその後に襲いかかってくる生活難で」という先達の言葉があり、その“2度目”を起こさせないためと思って歩いて来ました。

 21世紀に入ってから権力者様は「自助だ、自己責任だ」の思考回路が巾を利かすようになっています。そんなこと言われんでも、みんな自分の人生という「一所」を懸命に生きようとする。

 だども。

 社会がそれを壊すようなやり方してんじゃどうしようもねえじゃねえか―そういう思いで、それ何とかすんべど、足りない脳みそと動かない体で自分の持てる力だけはフルに何とかしようと動いてきました。

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社会どうにかするべという時、そこには意を同じくした人の大規模な行動がありました。

4)野球の部分で。

 自分をここまで成長させてくれた大きな柱の一つは、間違いなく野球で、その野球を一生懸命頑張ってる気仙地区の後輩の背中を押そう、と。まあ応援すると言ってもいろいろな手法がありまして、自分の出来る限りのことでそれを為す。この10年間、以上のスタンスで取り組んできたつもりです。

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 ここ数年行っている野球歴史調査を見ると、戦争や災害など様々な惨事の後はスポーツに熱が入りやすい状況になりますが、その後、関係者の環境の変化・動態、仕事や私生活などの役割追加等々考えると、ボディブローのように響いて、意識を持って取り組まないと「熱」が失われてしまうという状況があることに気づきました。

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 今ここでどうすればいいか、というのが思いつきませんが、せっかく場に居合わせたのなら納得いく歩みをしていただきたいので、考慮に入れていただければと願います。

5)東日本大震災から10年、昨夏に母をなくして8ヶ月。感情の変化激しい私ですが、この方面では泣いてる暇はないと思い、10日まで涙こぼすことをしてきませんでした。

 ですが、震災10年という時間の経過と、たまたま見てしまったある漫画で緊張の糸が切れたんでしょうかね。不覚にも涙こぼしてしまいました。

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この画像は盛駅ですがご勘弁を。

 なんとか震災の方面で10カ年、もがいて生きてきました。「10年だから一区切り」ではなく「この後も良ぐ生きるために共に伴走し力を尽くす」と。そういう趣旨でこれからも大船渡はじめとした被災経験地域を見守り、必要に応じた行動して行きたいと思っています。

 ちょっと冗長な一文でしたけど、まずこれからも頑張って生きるべ、ど、それだけ。自分もどこまで伴走できるか分かりませんが、1日でも長くできるように努めます。

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16年同窓会時、三本締めを行う筆者。

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