私からは以下のような判断基準件提示しています。
(1)富裕層による収奪行為に抵抗できる
(2)人権を守る行動ができる人
(3)在野・市民の側からモノを見る人。
最近は悪目立ちする人がもてはやされていますが、そーいう人らに「金の使い方」「新たな法律制定」任せられるのか。検討いただきたいです。
上記条件を持った人を議会に送っていただき、この数年で進められた格差・分断社会を正したい。
2)生じた分断は残酷なまでに広がってしまい、そこに権威主義に寄りかかって人権を軽く見る人も増えてしまった。「自分の生活だけは守りたい」思いから、人権の拡充を「俺の益を奪う収奪行為」にしてしまい、悪罵を投げつける行為が日常化しています。
そんな発言が、施政者に相乗効果を与えている。「そういうやり方をしていい」と。ウィシュマさんを殺した入管行政を告発する人たちが、入管が公開した5時間のVTRを5分に編集した動画を発表しましたが、それを法務大臣の斉藤健が批判。それを喝采をもって迎えるという様子も目の当たりにしました。
「他人に人権を与えるから俺は幸せになれない」から「他人の人権を毀損する」というのが、すっかり当たり前になった。こういう社会だとね、俺、生まれる時に死んでた。何かにつけて「人権で救われる人なんざいなくなれ」という意思を示される、そんな社会で生きる場ありませんよ。今はかろうじてその場があるし、私も「いなくなれ」を拒否はできるので、厚かましく生きることにしていますが、この様子だと何かの歯車がもう1回転、2回転狂ってしまったら虐殺行為起きます。いまも入管の虐殺行為を許しているからそこにたどり着くまではそう長くないな、とにらんでいます。
人権を拒否し、「もぎ取れ」と語る人たちのコメント一つ一つが、虐殺への道を敷いていると、強く警告します。