つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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ダルビッシュ有氏の「無力さとの対峙」記述。無情感と相対し続けた8年を基に「強くなり方の考察」記しました。

 お晩でございます。以前の1ヶ月病欠じゃありませんが、喉痛いのとるためにどんだけ時間かかるんだか…。おかげで今週末に伺おうと思った所は全休です。申し分ありません。今日は注目の政治戦がいくつかありますので2記事製作する予定です。

 安田純平氏が帰国してからいつぞやの人質事件を彷彿とさせる自己責任論に基づくバッシングが起きています。それに対してMLBプレーヤーのダルビッシュ有氏(こっちのブログではこの敬称にします)が94年のソマリア虐殺の件などを引き異議をとなえています。そこからのダルビッシュ氏と論難者との議論はノータッチ、てことにしますが、ダルビッシュ氏の記述の中でひとつ、刺さった言葉がありました。

 『皆、無力さと常に対峙しながら生きるわけで。』

 この言葉は、特に「3・11」以降強く意識する言葉です。私も「言葉のままの実体」として把握していたわけではありませんが、1ヶ月後あたりにお会いした仏教関係者との会話の中で「そーいうことか」と腑に落ちるものが。それ以降「無情感」とどう相対するかをずっと意識してきましたが、どうもそれを吹き払うやり方、言い替えれば「強くなり方」ってやつですか。それを間違えてきたのでは、という危惧をずっと持っています。

 でなかったら、「〜のために何かする」に頭が行きすぎて「ついていけないやつは死ねよ」と言わんばかりの棄民社会が蔓延ることは無かったろ、と。無情感に勝とうとするあまり、ひとつの方向以外を切り棄ててきた結果が今。ほんに「どーにもならないことの向き合い方」というのを考えさせられます。

 受け止めるにはあまりにも凄まじ過ぎた東日本大震災。傷が易々と癒えるものでないことはあの日以来の認識ですが、傷の癒し方を「他者への攻撃」で晴らす行為には決して与せずに相対し続けます。お付き合いいただきありがとうございました。

大阪府箕面市教育委員会「市議への情報源聞き出し行為」。権力強者の傲慢さは今の社会の反映でしょうか。

 大阪府箕面市議会で学校教育について質疑をした共産党の村川まみ市議に対して『情報提供者を明かせ』と同市教育委員会が迫った、との報道を見ました。マスコミで表されたのは朝日新聞大阪版だけですが、これはしっかりと「ふざけんな」と対応しないと大変なことになります。

 少し前までなら「内部告発の情報源は絶対に守る」が当たり前。少なくとも情報受け取った側が「売り渡す」ことは絶対厳禁だというのが当たり前でしたが、森友・加計問題で出された内部告発に対し尽く「告発者を明かせ」と与党並びに同支持者が迫った結果、さっき述べた絶対原則の認識『も』ぶっ壊されてしまいました。

 大阪府の維新勢力が行ってきた牽強主義と併せて、権力者のでかい声がガンガン響く社会にさせられたことが、このように「立場の強くない人の反撃機会」をぶっ壊してあたり前という社会を生んでいる。この事に強い危機感を持っています。

 村川市議のブログ記事は下記のとおりです。

ameblo.jp

まだ出てくる「共産党は勝てないなら選挙たたかうな」論。示し続ける行動しなければならない理由も見ずに“沈黙”強要しないでください。

 Twitterができなくなって何が一番申し訳ないかというと、選挙戦で助け船を出すことができない、というのに尽きますか。いま行われている選挙戦で言えば福島県知事選挙・県議補欠選。県知事選挙では町田かずし候補が、県議伊達区では大橋さおり候補が戦っています。

 共闘論について、この福島もそうですし、先の京都府大山崎町でもそうでしたが、他野党が相乗りしてしまう状況で荒れている部分があります。それは分かりますが、その返礼に「だったら共産党は勝てない選挙やめて不戦にしろ」というのを食らうと「は」となりますね。福島県知事選で言や、いまの内堀氏陣営の政策と合わないし、その立ち位置をとるなら選挙で戦わないとわんないのと違いますか。

 もうひとつ。そう言い放った方は「所詮共産党の自慰行為」と。いやあ参りましたね。人間ね、常に政治に意識向いている人ばかりではないのですよ。人の営みは恒常的に続くわけで、その常々で広い有権者に働きかける努力しないと沈んでしまいます。

 ライトな組織論も悪いと言いません。むしろ間口広げるのにはいいでしょう。でも、時々の風にまかせるやり方だけでは物事進みづらい。根っこある組織というか、なんというか…そういう存在は必要でしょう。昔みたいに荒らす気はありませんが(私の事情で)障る発言には程度踏まえて記述させていただきます。

安田純平氏の帰国と否定的反応。「日本国に迷惑かけるな」なる事大主義にとらわれて石を投げつける様子に唯々諾々とは従えない理由。

 映画「相棒」の第一作を見終わったときの感覚は忘れられない。単純に「いい映画でした感動しました」などという甘ったれた感想を許さない現実を見せつけられて。何か為そうと行動していた人を邪魔した側ではなく、その被害者に対して石つぶてがこれでもか、とぶつけられた事象が話のキー。それは映画の中だけの話ではない。現実にもあった。

 その「現実にもあった」ことが、今また起きている。約3年人質になっていた安田純平氏の帰国。安堵される方もいる一方で、やっぱり起きてしまったバッシング。自分自身のゆるくなさ、大変さは10数年前から酷くなっているから、その攻撃度合いはますます苛烈になっている。

 過日の新聞で、辻大介氏の面白い視点の記事を見た。辻氏の記事を見て認識したのは…四角く言えば『国家主義』、身近に直せば「長いものに巻かれろ」という考えを主とする方は、自分より少数派の人に対して「足を引っ張るな、多数派に倣え」とどやしつける事大主義に出る人の声がでかいこと、ですか。それが結果として少数派の人を踏みつける結果になっている。この安田純平氏に関わる一件もそういう様相になってます。

 少数派、というよりは非強者の位置にいる私にとっては、ぶちかまされる攻撃性を他人事と思えず、かつ「黙っていたら嵩にかかる。気づかせなければ再び繰り返す。ならばカウンターできる条件ある人が、投げつけられた石つぶてを叩き落として投げ返さなければならない」と、考え行動してきました。

 「長いものに巻かれるのは人間が持つ習性だからしかたない」―知ったふうな口で述べるのはご自由ですが、そればんでは生きていけないと、ある者はジャーナリストとして実情を見て、ある者はそれを基に社会に「修正」を働きかけ、不条理さも持つ現実を変えようとする。「今に安住したいから余計なことすんな」とその行動を批判する方もいます(表現を抑えています)が、「痛覚神経なくなったら病気気づかないで酷い目遭いますよ」と。それを締めにして今日の記述終わります。

人質になっていた安田純平氏の一件と麻生氏が発した「不摂生に医療費出すな」−共通点は「自己責任という名の攻撃性」。

 今日は。相変わらず喉痛いの治らず。一旦良くなったんですけどね。何なんだろ。そんでも見過ごせないことはひとつあったので記述します。

 安田純平氏(以下純平氏)の解放が昨晩伝えられましたが、風当たりが強い。十数年前のイラク人質事件とか、それを題材にした映画「相棒」を思い出しますね。待ってましたとばかりに叩く方もおられますが、では自分が3年の時間その環境にいられるのか、と。

 ジャーナリスト言われる方はシビアな所に行って情報を得て、それを世に発表するのが役割なもので。普段耳にする情報は誰が得てきたのですか、という話。自己責任をとなえて糾弾する方もおられますが、市民個々人についてはともかく、そういう態度を権力や政治家はとるな、というふうに思うものです。

 自己責任という観点では別なカテゴリでもニュースありましたね。麻生太郎氏の「不摂生なやつに医療費〜」云々、という報道。選民思想むき出しに、犬笛吹いて憎悪をかきたてるものの言い方が安倍政権に関わる者の悪癖なんでしょうが、「不摂生だから医療にかかるな」は、イコールで「死ね」言っているのと同じ、というのに気づいていただきたい。気づいて言っているなら「ああそうですか」…って方なんだ、と判断するだけです。

 それでも言わせていただければ「“不摂生”の判定者は?」「変わる好機(=受診)をなくすのはいかがなものか」。00年代は不摂生としか言われようのない生活をして、身心破綻をして同年代の一般的な生活はできなくなり、影響抜くのに時間かかった人間から見れば「なにをそんなに“殺したがって”いるのか」と冷めた目線しか送れません。

 日本社会が痩せ細っている現況下で苦しくなり、「守られている」と思う人に対して攻撃的になる人が増えている。「自己責任」という言葉がそのスイッチになっていますが、反撃力のない人を攻撃しても得られるのは「瞬時の快楽」だけです。広い人に「原因」気づいていただけるように行動し続けることを述べて項を終わります。

新聞づくりの研修会感想。

 今日は。昨日は星空きらきらしていた夜空ですが、今日は曇天に覆われています。その分だけなんぼか暖かいのですが。皆様お住まいの地域はいかがでしょうか。

 先週末は新聞づくりの研修会に行ってきましたが、記述にしろ写真にしろ、系統だっての教育は受けていないので、その「基礎」を覚え直す好機となりました。紙面づくりでの人間の視線の移し方、それを基とした段組の仕方、写真ではデジカメの利点・弱点など、手探りでやって来たうん十年の間に知っておけばね、と思うものがあります。

 最近は新聞などをパソコンなどでつくるのが当たり前になりましたが、昔は専用の方眼紙を基にして文字数を分配し、活字を拾っては紙面をつくっていた−その「元々」を忘れないで、これからも読まれる記事つくりたいです。

 今日は別方面も書くのでここで失礼します。

茅ヶ崎市「慰安婦」ドキュメント上映と台湾の鉄道事故。問題の解決を妨げるのはなんなのかを考えたい。

 今日は。喉キズついてしんどい状況が変わらず、仕事・家事以外はずっと横になっていました。冬支度すら満足にできずじまい、と。情けない話です。

 今回の記述は、先週行われた慰安婦を題材にした映画「立ち上がる慰安婦茅ヶ崎市上映会について触れます。「慰安婦に関わる映画」を「自治体が後援する」という字面に対して、排外主義者が激しく反応。「上映自体はいいが『後援』がまかりならない」として茅ヶ崎市に抗議をぶちかまし、当日は会場近くを宣伝カーで威圧、一部の者は会場に突入し妨害を図る者もいました。それでも約400人が映画を見にきて、この映画が発する問題提起を受けとりました。

 この映画は「都合いい」部分だけを画いているわけでなく、慰安婦に関する運動体の中の課題をも扱っていて、総合的に考えさせられるモノになっている、という感想もあります。排外主義者の面々は「日本が文句言われることが許さない」で反応しているんだと思いますが、「行ってきた行為の中で間違いがあればそれは直していく」すらも放棄するのかよ、と疑問に思うものです。

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 話変わりますが、台湾で起きた列車事故、私が見聞きした時点では18人がなくなられているとの話です。事故時の動画を見ましたが「これは耐えられないでしょ」というレベルの脱線。列車の機能に対する過信(カーブ進入速度)、S字カーブと「どうなの」と思うもので、一日も早い解明の上で、安全を確立していただきたいです。

 その上で。日本の報道がウザったい。

 「車両は日本製で、安全で、性能が…」なんてことは、いま必要な情報ですか。さっきまで触れた「慰安婦問題、日本は悪くない」の裏返しで、問題の解決という視点で見ればどっちもジャマでしかありません。私がテレビを見るのが嫌になったのは、何かあればグッと入り込んでくるウザったさ、というか同調圧力が原因。「考えて相対する」クセをつけて社会に対峙することにしたいです。

 長文ですがお付きあいいただきありがとうございました。

那覇市、大山崎町で市井目線の首長当選も、川西で極右議員の進出許す。現れた状況に対峙するのみです。

 那覇市長選挙で城間みき子さんが当選し、京都府大山崎町では自民公明など多勢力が推す候補者を破り、政党としては共産党が推した候補が当選。「長年の機動的な活動で安倍政権の苛政を押し返す」様子も見えていますが、一方で兵庫県川西市議選では極右かつ暴力もいとわない候補が当選に至る事態になりました。

 表向きは「市民平均の課題」語っているようにも見えますが、その実は排外主義者の一員で労働組合を襲撃し有罪にもなった方でもあります。他になり手がいなくて当選させてしまった、という地域はありましたが…。「ふたつの面」各々で当選圏に浮かび上がらせてしまったのを残念に思います。

 頭やら行動やらして浮かび上がろうと思うのは自分達だけでありません。ただ、その結果「いち人間としてすらどうなの」という輩を当選させてしまう、というのも嫌なもの。これからはそういう排外主義の勢力とも闘争をすることになるんですね。葛飾、松戸、立川の経験を聞いてみたいものです。

 議会に出た以上、相対する対象は「市民生活に関わることすべて」。一つ一つの行動はかっちりと注視していくことにします。お付きあいいただきありがとうございました。

一つ一つをたたかい抜いて、活路を見出だす−沖縄県知事選後の那覇市長、福島県知事選雑感。

 沖縄県知事選でもそうでしたが、私はどうにも「カリスマの力を借りる」ようなものごとの進め方が好きではなく、何のためにオール沖縄として結集しているか、その「何のために」を大事にしたいと思いまして。スクウェア(真四角)な考えですがその部分に力点置いて記事を書いています。

 沖縄県知事選、豊見城市長選ではそれが実を結んで市長を「市井からの発信に耳を傾けてくれる人」にできましたが、そうするには厳しいところの方が実は多く。厳しすぎる箇所では政党では共産党が一手に引き受ける箇所も少なくありません。

 では勝ち目がなければ諦めるのか、言えばそれはNOでしょ。その場その場で闘えない、抗えないようでは勝ちの芽もつくれないでしょうよ。そこでつくった礎は離さず歩いていく、の繰り返し。諦めている暇はありませんね。

 一見して大差に見える試合だろうが、実は詰める道もある。「手元にある一票を無駄にしないこと」もその手段です、と記して、項を終わります。

キャッシュレス・電子マネー。便利なのは否定しないが、負の面も見ずに無邪気に一本化を求めるのはいかがなものでしょうか。

 お晩でございます。ここ2日、風邪とは違う喉の痛みで必要な所用以外は臥せていました。様々情報入ったりしていますが、いま私が気になっているのは「キャッシュレス・クレカ」の話です。伏せる前の記事もそれだった気しますが。

 消費税論議の中で突如出てきた「クレカ使用者は8%で適用」。「クレカ・キャッシュレス対応の利かない人には利点がない」という批判に対して「そういう信用ないやつは自己責任。黙って税金とられろ」と、そこから更に「キャッシュレスは国策(?)だからついていけない奴は切り捨てろ」と論を進める方もおられます。

 WAONやNANACOはじめ電子マネーも含めたキャッシュレス対応・手段そのものには文句語りする気はありません。しかし、対応力に差があり、中には「使用不可能」状態になる方もいるのに、そこを無視して生活の最低限もできなくなるような方向に社会持っていかそうとするな、と思いますし、まして「ついていけない奴は死ね」語りは論外です。個々人が便利になるのと社会への一般化、分けて考えていただけますか。

 キャッシュレス・クレカの問題、殊に「クレカ格差」の問題は大分昔から意識していました。クレカがなければ「社会に信用がない」とみなされて経済行動が制限される、という話。それが「上流階級」様だけの話でなく、身近な生き死ににも関わるようになると笑い話にならなくなりますね。

 元々の消費税増税自体も負担割合の逆進性や、=しての富裕層負担減で「ざけんな反対じゃ」としか言い様ありませんが、そこに「更なるホンネ」が加わる。殴りつけて臥した人を更に蹴りつけるような行為をして恥じない勢力には屈しない、てなところで歩いていきます。お付きあいいただきありがとうございました。