写真は19日北上市の政党宣伝の様子
物事を考える基準をどこに置くか。人間は忘れやすいし、衝動にゆられやすい。そういう弱さを利用して力を得ようとする勢力もある。10年ぐらい前までなら一発アウトの事象を、アウトと認識しないで居座り続け、それを成功体験に市民有権者に負担をかぶせる法整備をガンガンと進めてくれたのが2012年度以降の自公政権・安倍→菅→岸田政権でした。
さっき触れた人間の弱さの部分。どんなろくでなしだろうが力は持っているから、その力に頼れば自分の禄だけは確保できる(と思っている)。それを得るために、権力者に対する疑問の声を次々と跳ね飛ばす。ある意味では自公政権当事者よりも、自民ネトサポ言われる箇所の人たちがこわかった。自分さえ満たせれば他はどうなってもいいと。そういう考えがどうにも相容れなかった。
もう一つ自分が相容れないものは「他人を駒のようにしか使わない言動・行動」。2015年に野党共闘が整備され始めるまで起きていた「野党第一党支持者による一本化強要」には神経すり減らしました。自分の寿命もこれで20年削られたなと思っています。
2015年の安保法制・戦争法強行採決以来、自公安倍政権の禍政に対し力を集めてなんとかしようとする動きが、今のような市民・野党共闘となって現れた。そこに集まる人たちは現実に押しつぶされず「現実を乗り越えた社会を築きたい」という趣旨のメッセージを出し続けた。
私はそこに希望を持つものです。
依然力の差は以前アンバランスで、それに絶望した人が転落し、それまでの自分を全否定することで精神の安寧を図る様子をもいくつか目にしてきました。去る者は追わず、でしょうけど見ていてつらかったです。
私が持っている“武器”は、あきらめの悪さしかないんですよ、ぶっちゃけ。何度生きることをやめようと思ったか。でも、それだけはしたくないという思いだけは一人前で。「低スペックのくせに〜〜」という目線をはねのけることだけはできていると自分では思っています。
先に述べた希望を語る人たちとは違う位置ではありますが、今の自公政治、あるいはそれをさらに苛烈にした維新・極右勢力の伸長を許さずに力を保つ。一つ一つの政治戦でそれをやって、生きる権利そのものを守っていく。意を同じくした仲間たちと戦った結果は31日に出ますが、それ以降も戦いの場を維持できるように。
拙稿では
と薦めてきました。なんとか踏ん張って先につなげていければ、と思います。
皆様のご考慮をお願い申し上げ、今項を総選挙の判断いただく前の一説とします。おつき合いいただきありがとうございました。