東京五輪などを踏まえ、スポーツとの関わりについて見解申し上げます。
戦後76年の8月15日によせて。
大日本帝国がポツダム宣言を受け入れ、玉音放送でそれが知らしめられたのは76年前。1870年代から絶え間なく他国への侵略を図ってきた覇権主義は、それを維持しようとわずかばかりの“恩恵”と引き換えに、日本国民にも、植民地となった各所人民にも、大きなダメージを与えました。
広範囲に付き合いの広がったいまの社会。本来共存共栄の方向で営まれなければならないはずですが、ある箇所の牽強主義がきっかけで場の雰囲気を悪くする―そういう事象がいくつも見られるようになりました。
「紛争事を終わらすためには、どこかで“損と屈辱”を受け入れなければならない」のですが、十重二十重に対立と分断が持ち込まれてややこしくなっているのが実際。人間の脆さをくみつつ、問題解決を図る取り組みの仕方を構築することが必要ではないでしょうか。それを実効あるものにするには、権力者の研鑽と市民からの突き上げが必要か、と考えます。
いずれにしても、戦争が引き起こす惨状に思いを寄せ、人間の脆さを認識した上で社会に向く。反動・懐古主義者による「帝国復興」の企みを排して、一人一人の市民が良ぐ生きられる社会を築くことで、二度と国をぶっ壊す事態をつくらない、これを任務として頑張ります。
2021年8月15日 伊東 勉
東京五輪終了にあたっての声明。【2ブログ共通】
やまゆり園事件から5年。東京五輪で現れた現象と共に考える。
※7月25日に完成させていましたがアップをしないでいました。遅れてのアップご容赦ください。
7月26日といえば、神奈川県やまゆり園で大量殺傷事件が起きた日。あれから5年が経ち、この事件から社会が教訓を汲み取ったかと言えばさにあらず。残念ながら、「生産性のないは死ね」という意思がだんだん増しているのが現状です。
考えすぎ?
考え過ぎだったら、あれ以降に「透析患者は死ね」とか、社会保障を受ける人への攻撃とか、コロナ禍を利用しての「社会保障受給者の大量処分(オブラートに包んでますが実際はそうだろ)とかいう話は出ないでしょ。こういうことが相次いで、数年前から精神的なスイッチが簡単に落ちるようになっています。ずっと刃物を突きつけられているような感じがして。その過程の中で、人に対する不信感というのも持つようになってしまいました。
そしてオリンピック。オリンピックはじめ、スポーツの国際試合を見なくなってしまったのは、「スポーツを利用した国粋主義権威主義への服従を求める動き、敵対する者への攻撃」が甚だしくなって、嫌になって。それも不信感に拍車をかけます。
そして、始まったオリンピックので巻き起こる 不服従者への攻撃。「お前ら反対派がオリンピックを封じ込めようとしたから悪いんだ、報いは受けろ」―コロナ感染やオリンピック推進側の不備、不誠実な行動で疑問を持ち、五輪開催はできないんじゃないの、と理由示してきましたが、先に述べた部分に加え、反対派に対してずけずけと心の中にまで踏み込んで「いいじゃん楽しめよ」「もう無理なんだから応援しろ」などという言葉が飛び交う。そして少しでも容認するような態度を見せれば「おまえは応援するな」という批判と「誰々も応援するようになった、お前も落ちろよ」という同調圧力と。
オリンピック、ひいてはスポーツという単語を聞くだけで具合が悪くなる。そんでも、このオリンピックには納得できない、してはだめだ、という旗を降ろすことはできない。これで降ろしてしまったら「強力な力の前には服従するしかない」というクセをつけてしまう。強力な力によって生きることさえ奪われてしまったやまゆり園事件と重なってしまうのはその部分。正直しんどい日々が続きますけど、辛抱強く生きていけば活路が見出せるはず、と思いなんとか生きてきます。
お付き合いいただきありがとうございました。
東京五輪競技開始にあたり。
東京オリンピックの競技は21日から始まりますが、私にとっては「楽しみ」と言えるものは何もありません。
社会で生きていかなければならないということを考えて、以下に書く性格は抑えていますが、どうにも「当たり前、という言葉を使った同調圧力」が好きでありません。特に利己的な物事を圧しつけるために、その言葉を使うのが納得できないものがありまして。
別な箇所からも。オリンピックなど日本代表による国際試合に「過剰な愛国心のかきたてと、一体としての近隣他者への罵声」がついて回るようになり、数年前から楽しんで見たことはありません。
さらに「オリンピック」を理由としての(医療など)市民生活の不利益おっかぶせ、五輪首脳による尊厳を欠いた行動。以上のことが重なり、私個人としては東京オリンピックについて一切考えないことにしました。気を回す余裕がないのもありますが。
私自身の感情は以上の通りですが、拙稿目にされた皆様には、賛否を越えて「オリンピックを反対する人が提示した疑問点」も片隅に置いてオリンピック期間を過ごしていただければ、と思います。
東京都議選―「要求実現の推進力」を投票行動に表す意味を考えましょ。
7月第一週についてのお題3つのうち、東京都議選について触れて来ず、二週間遅れの記述になりました。
1)最推薦勢力の日本共産党が19人の当選。これまで都議選で2回連続で伸長するも、逆襲食うパターンがありましたが、今回はこれまで培った市民・野党共闘の力も加わって共産党19議席当選+協力した勢力も今まで以上の議席を得て、都議会で市民的な立ち位置で臨むという勢力が1/6から1/4と、力を取り戻す結果になりました。
他の2勢力―自民・公明ブロック、都民ファーストの会ブロックにしても新自由主義的な性格。本当の意味で市民都民が温まる政治をというのを行っていく力をつけたいと思う次第です。
2)選挙の論壇で「ん」と思われたのが「大丈夫論」。批判はカウンターを当てていけばいいわけですが、「大丈夫論」は…端的に言えば「褒め殺し」ですか。だけども、「一票」という実利は持って行く。これはしんどいものです。
選挙戦の最中に「大丈夫論」であわや全滅の憂き目にあった2019年岩手県議選の経験をひいて警告を出した人もいましたが、それが間に合わず6票差で当選に届かなかった候補者もいたのが残念でした。声をかけ切る、ということが単純だけどどれほど重要なことか。なかなか力を持つことができずに「戦略的思考」にハマる人も多々見られますが、想いを届け切る ことを基本にしてやらないと、その意志を示す勢いがつかないというのを感じさせられました。
3)今年中には総選挙があります。安倍・菅政権による『市民に負担を被せ自分たちは社会の私物化で益を得る』いう政治を変えていく戦いがこれからも必要です。乗り越えなきゃなんないことはありますが、宿題出されたらクリアする、で頑張っていきましょ。
おつき合いありがとうございました。
声明―名古屋で開催中の「表現の不自由展」に対する攻撃を許さない。
1)名古屋で開催されている「表現の不自由展」会場に爆竹入りの郵便物が送られ炸裂。展示開催不可能に追い込まれました。有形の形で攻撃をする行為で、「たかが爆竹」で済ますことはできない。この行為に強力に抗議する。
2)「表現の不自由展」は、今夏ほかに2ヶ所で開催予定だったが、東京開催は民営のスタジオ会場前で抗議の域を越えた妨害行為が行なわれ、大阪開催も妨害に加え、極右勢力に親和性のある首長に影響され会場利用ができなくなってしまった。
その中で唯一開催にこぎ着けた名古屋開催でこのような攻撃をされたことは重大で、これを看過するなら「ある勢力は実力を持って存在を消去しても構わない」社会への変貌を許してしまう。
3)近年、濃くさせられてきた対韓国、対中国、対野党・左翼に対する「反日」視。この立ち位置にいれば“ウケる”と考える権力者、あるいは誘引する権力者によるすり寄りと併せて「攻撃しても構わない」障壁は限りなく低くなっている。
これを考慮すれば、障壁突破されたらどんな惨劇が起こるか。
「人間の脆さ」を認識するなら、無条件にこのテロを許さず、その方向で権力者に対応させることが必要であることを述べ、意思を表明します。。
伊東 勉