つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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私伊東がしてきた「表現」―ひとまず“第1章”。

 私が「世に向けて発信する」行為をはじめてうん10年なります。今は誰もがそういうのを気軽にできる時代になり、私自身もブログ、FacebookInstagramの3媒体(Twitterは2018年廃止) 社会活動やら社会人野球 の記事を書いていますが、それをどうやって育んできたか…というのを、「どうしても取らざるを得ない休みの時間」を使って思い起こしてみました。
 
1.幼少期〜小学生時
 
 小さい頃から活字を読む(文章〜ではなく)のは好きで、自動車や鉄道、交通標識も興味のうちに。クソ下手な漫画を書いていたりも。野球に関しては「面白いチャンネルを奪う嫌なもの」〜いわゆるチャンネル争い〜として嫌いな対象でした。
 小学校に入って文章の書き方を覚え、「自分の作ったものを誰かに見てもらう」楽しさをも知ることに。出身の大船渡小学校では各学年ごとに学級通信をまとめて文集を作っていまして、その過程のなかで印刷室に入ることも多く、「本・書物をつくる楽しさ」も知ることに。
 
2.中学時代の「加速」…兄が与えてくれた“影響”
 
 中学時には「文を書き表すことの楽しさ」を加速させる出来事が。
 ひとつは中学時代に見た当時高校生の兄貴の副読本。社会活動に関しては社会公民の副読本が大きな力となりましたが、文章を書く力もこの副読本が大きな力になりました。学校の国語の授業も怠っていたわけじゃありませんが、自発的に読み込んだものはより力になって、そこら辺あたりまでは漫画も書いていましたが、表現手法を文章1本に固める基になりました。
 同時に兄貴から宗田理さん著作「ぼくらの七日間戦争」を譲り受けたこと。その中身をさることながら、文章で物事を表す面白さをより高いレベルで知りました。
 ちなみに。
 中学時代、3年時の学年文集の副責任者の役割を負いましたが、編集長がバリバリと物事を進め、イラスト担当のK君の尽力もあって副編集長であるはずの私はほとんど出番もありませんでした。そのお返しは42歳の歳祝いで少しは返せたかな、と思って…思い込んでいます。
 
3.場数を踏んだ高校時代
 
 高校は大船渡農業高校に入りましたが、家が農家やってるわけでなく(畑などは手放した)バカ正直に言えば学校行事、高校野球など人のつきあい方を学びに行っていたというのが実際。三年時に学校農業クラブの学校分会長に就任。この位置にいるといろんな部分で感想文とか何かの冊子の文章書きをすることがあり、その場数は多く、その分鍛えられた部分もあったと思います。
 高校時代の文書書きで影響・後ろ支えになった二人の先生の紹介を。高校入学時に「中学時代の様子」が高校にも伝えられますが、それを見た当時の文芸新聞部の顧問の先生から「野球部活動で評価されているけど、作文にも注目している」と、目をかけていただき、また、担任の先生は先に述べた学校農業クラブの顧問もしていて、記事製作時は様々ご指導をいただきました。2人の先生から場数を多く踏ませていただいて、自然「他者に見せる」記事をつくる能力を身につけることができたのかな、と思っています。
 図書感想文など「学校の宿題」の類いは苦手でしたが、学校卒業時に『大船渡農業高校野球部レコードブック』を制作し、高校を卒業後10年間は大農野球部に関わり、夏の大会終了後には選手権大会の試合の様子とそれに絡めて1年間の様子を記した「レコードブック続編」を書き続けていた(2004年まで。05〜07年はブログで簡略版)ことも記しておきます。
 
4.社会人 ワープロからブログ開始、そしてネットの負を負い
 
 社会人に入ってからも文章を書く部分は継続し、1996年正月にワープロを購入以降はワープロを使って、「大農野球部レコードブック続編」や社会人野球「今出スポーツ」を記述し続け、時折冊子・新聞版として発行し続けていました。データの救出に失敗してしまい、文章のの大半を失ってしまったことが残念でなりません。
 1990年代後半からホームページという概念が現れ、世紀が変わってからはブログというのも 現れてきます。自分もその手法は何か取れる手法はないかと思っていましたが、「金がかかるのかな」と不安。まずは携帯メールでできるトランクネットワーク「ケログ」に登録して1年間記事を書きました。
 それなりに見ていただける人もいて、今で言う「いいね」をしてもらったり、返信が返ってきたり。楽しい交流をもったりしましたが、携帯電話のデータ整頓の際にパスワードを連結できなくしてしまいました。
 次にSNSを継続する場として選んだのが楽天ブログ。なぜ楽天にしたかというと、2005年から近隣東北に東北楽天ゴールデンイーグルスが来たから、という安直なもの。当時は楽天市場が何が何だかわからないまま楽天の会員・ブログに入会し、社会人野球・社会活動両方を主なテーマで書き始めたわけです。当時のブログは毎日平均200カウントの人に見に来ていただき、当時の有名ブロガーの方々にも多少関わっていただいたりしました。
 ただ、SNSというのはいい場面ばかりじゃなく、敷居低く絡みに来る人も、自分が対応しがたい人も現れて…。要は何ですか、自分のやること全てを否定される行為に追い詰められた感じを起こし、パニックを起こすなど、とうとう体の変調にもつながって、2009年にはある一件をもとにして憎悪の心が爆発し、見事に返ってしまい、心筋梗塞を起こして一般的な生活を営む手段を失いました。
 それでも生き残った以上、この後も基本となる社会人野球・社会活動を継続し、それらを通じて世の中に自分の意思を発信し続けたいという心だけは失わなわずに生きていようと思い直しました。


 ひとまずはこれで前編終わり。後半は2010年以降、伝える方法が増えた中での自分の「表現」の歩みを載せておこうと考えています。おつきあいいただきましてありがとうございました。