つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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親父―2010年逝去―の納骨にあたり。

 今晩は。明日から大船渡市議選がありますが、その記述は明日晩に。今記事は明日納骨になる親父の件について触れます。まずは…少々どころでなく長いのですが、親父の紹介を逝去直後の記事をご覧ください。

2010年07月31日ブログ記事
「祖母と父に関してのお話。」
 
 7月の第3週。私にとって大事な人を2人なくすという一週間となってしまいました。その2人の事をを書かせていただきます。
 (7月17日逝去の祖母の部分は省略)
 続いて20日になくなった父に関してです。
 私が中学2年の終わりの時期に私の両親は離婚し、父はそのまま大船渡を離れました。その後、高校2年の修学旅行の時に東京駅で再会。高校卒業直後にも電話をもらっていましたが、連絡はそれきりになっていました。
 両親は時々大きいケンカはしますが、特段仲が悪いというわけではなく普通の家族として過ごしていました。しかし、私が中学一年の時に母が家出し、直後に父が腰痛で入院。兄は高校入学直後で多感な時期だった事もあり、私が父の付き添いにつき、病院から登校する日々が続きました。思えば、そこから何か歯車がずれはじめた気がしました。
 退院した父は復職しましたが、体が耐え切れずほどなく退職。母も家出先から帰って来ますが、以前のような生活には戻ることができないまま父が別居。中二の冬には出稼ぎに行くということで、先述のとおり大船渡を離れ、離婚、という事に相成った次第です。
 貧乏ではあったものの、それでも月並みに一家で暮らしていた生活が一転してしまいました。母も病気と更年期が重なり、仕事ができず、生活保護に頼ろうにも、当時はそうすると高校進学にすら影響が出る始末。加えて母が他人からの干渉を嫌い、そういう保護関係は突っぱねたため、兄を三陸の祖母宅に預け、私は母と大船渡で2人暮らすことに。生活はひどいものとなってしまいました。
 それでも不思議と親を憎む事は考えませんでした。何だかんだありながらも、視線はきっちり向いていたから。もっと言えば、自分たちを「捨てよう」とはしなかったから。
 こういう事態になってしまったのは、2人でどうにもできない物事があったから。
 もちろん、当時も今も納得できないものはありましたが、もうそうしなければ…という雰囲気はなんとなく感じていたので、もうあきらめるほかないと考えるほかありませんでした。
 その代わりに一つの代償負ってしまったんですね。
 「家庭には期待しない」と。
 高校時代、朝は早かったかどうか言われれば微妙でしたが、夜は遅くまで部活などに明け暮れ、学校での生活に全勢力を傾けていましたが、今からら思えば「家庭に〜」の反動だったわけです。
 それでも先に言った通り両親ともに嫌うことはなく、高二のときに東京で再会できたときには、素直にうれしい気持ちが出ましたし。
 しかし、その後は父の方でも病気などで仕事が動き、連絡がつかなくなってしまったこと、私も北上に就職するなどして自分が生きるために必死だったこと。そんなこんなが重なって、父のことを考えるのが二の次に。20年前に様々残っていた資料を元にして約3日間、父を探しに歩きましたがその途中で「善意がアダとなる」類のトラブルが起きてしまい、以後の手掛かりを一切つかめなくなる事態になってしまいました。
 こうなってはもはやお手上げ。その後もごく稀に親戚に連絡が来ることはありましたが、私達への連絡は無い状態に。
 そんなとき、2年前に父が仕事ができなくなり、生活保護を申請したことから、父の居場所が分かる事態になりましたが、その直後に私が心筋梗塞で倒れてしまいました。これでは何もする事ができません。
 それでも保護はされている事、居場所も分かったので、体調の回復次第でその場所に行くことができると…2010年秋に関東地方に行く日程を組み、その中に父のいる場所に行こうと思っていた。祖母の急逝でその思いを強くしていた所に、父の急逝を知らされたのでした。

 あのすぐ後に東日本大震災が起き、なんとかもがいて、もがいて…10年生きてきました。その間伊東家で墓をつくることも模索しましたが、病人二人抱えていては無理でした。母方の実家の墓に納骨することで調整がつき、明日大船渡で納骨します。これもひとつの区切りになります。
 母親にもできたと思っていませんが、親父には親孝行ってものができませんでした。せめて1日でも長く生きて、親父が見ることのできなかった世界をひとつでも多く見る、というのことで親孝行の代わりができたら、と思っています。
 長い一文でしたがおつきあいいただきありがとうございました。