つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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安倍晋三氏「国葬」に対する懸念と、村八分に関する考察。

 しばらく放置していてすみません。繰り返しになりますが、両方のブログを同日にする体力はありません。その事ばかり述べておきます。
(1)まず。
 私伊東勉は、安倍晋三氏の国葬に反対の立場をとります。
 法律論で語られる方もいますが、私は安倍晋三氏が統治を行ってきた10年間で 刻まれた断層と言うんですか、それをさらにえぐって「安倍晋三氏側につかない人はその存在を毀損される」危機感を持っています。
 古くから権力者の葬儀は政に使われてきた、という歴史上の経験もあり、そういうところも含めて「力の行使は抑制的にしろ」というのが近代社会で確立されてきたはずですが、自分が権力者で存在したいがために、これでもかと反対派を敵と見立てて運営し、分断の傷は深まってしまった。それをさらに深くするような行為は慎め、というのが思いです。
(2)案の定、これまでの10年間ですっかり刻みつけられてしまった「恒常的な憎悪(〜分間憎悪、を更に酷くしたもの)」というやつで、反対意見そのものが人でなし、ろくでなしのように扱われていますが、その中で出ているワードのが「村八分」。
 いわく「日本人はどんなやつでも“葬式”と“火事”だけは対応する温かい民族だ」などと話されていますが、そんなものは詭弁としか思わない。所詮“火事”も“葬儀”も何のために関わるか言えば「村八分をする側の論理」であって、“葬儀”は「衛生に悪いから」、“火事”も「放っとけば自分に害が来るから」というだけのことで、決して村八分対象者の存在や意思を認めて残りの二分を行うわけではない。そしてその「二分をやってやった自分達は偉い」という恩着せがましさ…もっと言えば自慰行為を増長させるでものでしかないと認識するものです。
(3)拙稿では、幾度も「安倍→菅→岸田政権のやってきたことが序の口」にならなければ…と思って来ましたが、その方向に加速つけたい、という雰囲気を感じます。せめてこの“熱狂”を収める社会を、と思いますが、それまでにどれだけの傷を受ければいいでしょうか。6年前のある出来事、真面目にやったのは「あれが別れの挨拶になってもいいように」。ただそうなったら俺も嫌だし、“同志”が難儀するので、日々の宿題真剣にやって、はらっていくとします。
 おつきあいいただきありがとうございました。