つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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母の最後の1日。

1)昼に書いた一報でもお知らせしましたが、母が7月5日7時13分に永眠しました。

 79年にわたる人生、特にここ数年はあちこち手術を要する病気を発症し、その都度都度「もうだめだよ」と言われていました。しかし、土俵際に強い性質持っているのか、そういったところから何回も「生還」。一年前も病院移しての手術を越えてきました。その時点で医師が「手を打てる箇所はなくなった」と。あとは家族で覚悟を決めて「最期を悔いなくむかえられるように生きる」ことを意識して行動をしてきました。

2)母が最後に会った人間、結果的に私になりました。いまはコビット19・コロナの影響で15分くらいしか病室に居られないんですね。ここ1ヶ月で急激に体力が弱り、今まで歩けていた箇所も歩けない状態になり水曜日に入院。土曜日。締め切りある仕事を終えて病院に。この時は「長期戦」を考えて、今いる県立病院からどこに移ってどう対応するか、という感じで話を進めていました。どうも次の病院は遠そうだ、ならいるうちにできるだけ顔出すかと病院に。いつも入院時はテレビ見てのほほんとしていた母ですが今回はそれもできていませんでした。

 「勉、足痛い。解してくれ」

 ―左足は既に体温を感じなくなってしまってました。筋も痛くて眠れないと。いることのできた10数分間、ずっとさすってました。

 「楽になったわ。誰もやってくんなくてな。これで寝れそうだ」

 何言ってんだ、と。こんで眠れるようになるなら毎日来てさすってやるぞ、などとはなし語りして

 「じゃあな気をつけて歩けよ」

 これが最後の会話になりました。今朝、母がなくなったことを知らされたとき、なくなったことには驚きましたが、それ以上に「悔いは残さず送ってやれた」という思いでいます。悲しさ、寂しさはありますが。

3)45年前。母が私を妊娠した際、途中で盲腸手術をすることに。兄を出産して以来の妊娠がうまくいかなかったこともあり、周りからは「諦めろ」の声。しかし…普段マイペースな母ですが、一線越えるとぶっ切れる性格を持っていました。

 断固拒否。

 その結果、生まれてきたのが私です。一般的な同年代に比べると…な生活をして来た私ですが、それでもこの世に産み出してくれた母には感謝してもし足りません。一般的な親孝行はできませんでしたが、1日でも長く生きて、ひとつでも何かを社会に残す。生きた証を残すことで母の「気迫」に応えていきます。

 長文おつきあいいただきありがとうございました。