8月11日。
大震災の月祈念日と共に、8年前になくなった父の誕生日だった日であります。父が生まれたのは1945年。つまり、終戦4日前。父のきょうだいは長兄、次兄が軍隊にとられ戦死、姉が交通事故でなくなっていて、「あのまま戦争が続いていたら俺は生きていなかっただろうな」なんて語っていましたが、そんなことになったら俺と兄貴産まれてないんですが(苦笑)。
私も生まれ出て、まもなく43年になります。ここ数日広島、長崎原爆など、戦時犠牲者の最期の様子を聞くたびに「このまま社会壊されたら、俺らもこのように殺されるのか」と、自分に置き換えて考えこんでしまいます。同時に戦争がなくても死と隣り合わせの生活をしている私にとっては死ぬことそのものが他人事とは思えません。簡単ぶっちゃければ「死ぬことが怖く思うこともある」状態です。
1945年以降、空襲や軍事攻撃を食らっていない日本に住んでいるから実感を持っては語れない話ですが、社会全般見渡すと、軍事行動と言われている勢力の攻撃で死んだり生活の場を奪われたりしているのは、たいていが戦闘員以外の人間だったりします。ま、人によっては「攻撃対象の勢力を支持すんのが悪い」として正当化する向きもありますが、いずれにせよ権力者のさじ加減で社会が動かされた結果として一々の個人が殺される、という行為を認めるような動きには乗りたかない。
「大義のためには臣民は使い捨ての駒であるべきだ」と言わんばかりの言説が安倍政権支持者から聞こえ、その価値観がまま施策に反映されている現況。「〜に政治を持ち込むな」等という戯れ言はうっちゃって、戦争を筆頭にした棄民政治を跳ね返す。同じ生命燃焼さすならその立場で頑張りたいと思った1日でした。