Twitterができていた頃は、あからさまに攻撃にかかっている言論に対しては強い口調で返していた。「貴様の言動でダメージを受けている」というのを分からせるために。そして、敵意を受けている人を守るために。
ただ、このような“強い意思の発意”をずっとし続けていることが、“敵意に対する感受性”基準にズレを生じさせ、結果「しなくてもいい攻撃」をしてしまう事態も生まれています。分かりやすく言えば「ささくれだってしまい誰にでも敵意を向けてしまう」事態、ね。
自分が知らず知らずに他者と距離をとっているのも「自分の発意が他者を壊す怖さ」を(過剰に)感じているからなのか、と。「触るもの皆傷つけた」ってのはチェッカーズの歌にあったかな。ささくれだったのが簡単に収まる、なんて思いませんが、相手を見て話しかたりする必要性はあるのかな、と。
昨秋の総選挙以来、左派野党を完全に壊すために「どんな無理筋であろうが左派野党の論は否定する」てな言い方が跋扈しています。それそのものに対しては厳しくあたらないとなんないですね。ただ、その煽りに乗っているだけの人にまで同じ強度で対峙するのは違う、ってこと。「多数者獲得による社会変革」めざしにいくなら、スイッチの切り替えは丁寧にしてくべ、ということでいきましょ。