きょう、下記7氏の死刑が執行された。
遠藤誠一
土谷正実
井上嘉浩
早川紀代秀
中川智正
オウム真理教。80年代後半から台頭し、狂暴化してからの社会に対する攻撃はとうとう無差別テロにまで至ってしまった。社会活動の先輩たちが、オウム勢力の無法と戦い、その中で犠牲者も出てしまいながら危険性を訴えたが、社会全般としては止められず、凶行を実行に移させてしまった。愚行を実行した連中には相応の怒りを持つが、そいらを『始末』しただけで解決したかのようにはしゃぐのは「違うだろ」としか思えない。
夕方のテレビニュース、「死体をどうするか」というのを滔滔と語っている様子を目に。「刑が終わった人間に対して、更に追い討ちかけるのか」と、ため息をつかざるを得なかった。死刑囚の子どもにわざわざ「祝意」伝えに行く輩も。そこまで行くとさすがに吐き気を催す。「被害者や犠牲者のことを考えたことはないのか!」と青筋立てて疑問符持つ人に詰め寄る人もいるが、それを大義名分にして他者を殴りつける行為の正当化に使うな、て話。
先のようなことを記せばもれなくぶっ叩きにかかられるが、どーにも従えないものには従えない。その苛つきが何なんか…色んな意見見ているうちに気づいてしまった。
「これを“ネタ”に、また分断仕掛けられるのか」ということに。
死刑を断行したのは「多数派が支持している安倍政権」。だから「それに逆らうのは反日、非国民」―要潤さん演ずる仮面ライダーG3じゃないが「もういい…もういいだろ!」と叫びたくなる。「死刑を断行して、異議を言う安倍政権非支持者をぶっ叩くまでがワンセット」という指摘に背筋が凍るような感覚を覚えた。この5年間、ずっと味わい続けてきた感覚。安倍政権が「反対派の否定」で保っているのをいつもいつも実感させられてきたが、その「使い方」が段々酷くなっている。「そこまで分断工作に使いますか」てな部分で。
オウムの行った所業は、巡りめぐってここまで社会を壊してきた。それはオウムの行った行動そのものと、その現象を更に利用したものと。そこら辺の後始末もつけられないで「やつらを処刑したばんざあい」と嬉々とする気にはなりません。オウム一派の処刑に対して喝采を浴びせている様子を見て「矛先が変われば…」という複雑な思いを持ちながら眺めています。「殴りつけていいとみたらどこまでも残虐になれる性癖」はオウムだけが持つものでありません。人間の弱さを認識しての行動を意識、認識していただきたい、と願うものです。