まず、土曜日で初七日むかえました。ブログではもうひとつ、ふたつ記事をあげますが通常の記事製作も再開します。
自分が社会活動から離れている間、自分の存在意義にかかわる箇所でひとつ(れいわ比例候補経験者による「命の選別容認」発言)、一人間としての善悪すらつかない公職者による圧力・扇動がひとつ(豊島区議会の沓沢及び呼応者)相次ぎました。前者はここうん十年垂れ流されてきた嫌悪的感情が社会全般に撒き散らされた結果、後者は左派相手なら何してもいいと、最低限を投げ棄てた愚行…なんだかね、と頭を押さえたくなります。
れいわに関してこれまである程度目をつむってきましたが、大西氏の発言そのものよりその後の支持者による擁護に鼻白む思い。一歩間違えれば“左の維新”になりかねない危惧を持ちます。沓沢一派の請願者圧力は問題外。クズ上等を是とする団体…にすら適応できず、より下劣に退化し、一般人であろうが手続きによらず私刑をかます輩がいつまでも謳歌できると思わないでいただきたい。
90年代に勃興した日本会議勢力を甘やかした結果、00年代に維新を生み出し、その維新を増長させた結果10年代に“日本第一”名乗る桜井一派や“NHK〜”名乗る立花一派を蔓延らせました。既に沓沢一派のような“下には下”も生まれています。人間の弱さは承知の上で、それでもどっかで歯止め入れないと20世紀、19世紀なんてレベルじゃない「文明社会以前」にされてしまいます。そうなりますと俺なんざ簡単に屠殺されますので、煙たがれようがアカ言われようが最期の時までこの路線には抵抗します。
それが俺の生まれた意味です。
おつきあいいただきありがとうございました。