川崎市議会で成立した対ヘイト対応の条例。ヘイトを言い放ちいい気分でいた勢力が反撃を試みていますが、所詮は致命的な欠陥を放置してのざれ言なのでちっとも効きません。少なくとも「批判」と「ヘイト」の区別がつかない限り。
今回、川崎の条例を嫌がる人らが持ち出した理屈は「日本人ヘイトを許すな」。はて、日本人ヘイト。ああもしかして日本社会や日本の権力者に対す批判のことをいっているのでしょうか。一緒にせんといて、というのを混ぜられると困ります。拙稿では幾度か述べていますが、いまの「多数派」支持者には、強者の威を借りて虐める側に立ちたいという趣の人が中心にいて、自身が威張っていられる場を保持するために「敵」をぶっ叩く。そんためなら社会全体で培われた認識を反動的にひっくり返すことをいとわない。批判の体をとってデマを流して「敵」を叩き、「敵」からの批判はでかく短い主語でデマと片づける傾向があります。
あとは多数派の引力で踏みつければ…というのをくりかえして8年。安倍首相の近隣以外は「権力者への奉仕者」にさせられているというのが現状。理由が何かは知りませんが、「自分は良い位置にいよう」と反対者の存在をおとしめる行為―殊に「“反対者”の逆が正解」とする行為には軽蔑以下の感情しかおぼえません。当方は「理由があって意思を述べている」のであって、「意思に合わせて理由をつくる」言論と噛み合うわけありません。
この際ついでに述べておきますが、いよいよ「自身」に影響が回る段階になって「これは野党が〜述べる傾向がありますが、所詮は「どうせ止められない→悪いのは野党」と導く自慰行為のダシ。純粋な与党支持者より性質が悪いというのは指摘しておきます。