つなげ“希”動力-人生記録員、伊東勉のページ。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

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成田悠輔の「集団自決」発言。一切の擁護を許さない上で見解+高市の開き直りにも見解。

 不祥事案件があって、それに対しての意思表示を優先していましたが、ビリリと来ていた物事がもうひとつ。“新進気鋭の教授”とやらが話した「高齢者は集団自決しろ」。

 これを「ものの例え」とか「問題を見てもらうために刺激的に発した」などと擁護される方がいますが、はっきり言えば「知ったこっちゃない」。言葉は出された言葉が意味をなすもので、後付の言い訳なんかいらない。

 そして、集団自決に対して疑問を持つ人に対して「もう俺たちはきついんだよ!殺さなきゃどうしようもないんだ」と正当化しますが、本当にそれしか解決方法ないのか。

 ここ5年ぐらい「邪魔だと認識した属性」を殺しにかかる空気がプンプンプンプン充満している。私は情緒障害者ですが、今真っ先に狙われている高齢者の次に標的にされるのは私の立ち位置と考えてますので。ビリビリに警戒しておかなきゃなんないんです。

 人間そんなに立派にできたもんじゃないから、何かのスイッチ入ってしまえば簡単にぶっ壊れてしまう。今だってスイッチが入ったら簡単に人殺せるでしょ?それを甘く見るなって話。だから殺されないための爪を研いでおくことも必要だし、殺しにかかる空気をはらって行く。とりあえずそれで抵抗してくしかないです。

 「生存権何ざ綺麗事だ」

 ―今の日本はそこまで落ちましたか。「ふざけるな」と申し述べておきます。以上。

PS 高市早苗が「赤旗の報道はデマ・捏造」などと騙っているようですが、高市の独自認識なんざ知ったことでない。ご自身を潔白に見せるための演技だけはお上手ですが、法的措置しないくらいだから“語るに落ちる”というモノではないですか。

 別な案件でも発言をその会場に居た人全員黙らせて“なかったこと”になりましたし、こうして「何をしてもねじ切る」行為を積み重ねて、異議申し立てをできなくする社会に持っていく。そちらの方が害悪です。

各々に「ついていけない」部分が―「キモい」論争。

 ある問題・カテゴリひとつとっても、その中にいる方々個々の経験や環境によって見方があります。その中の“最大公約数”をもって行動していくのが社会活動ですが、「譲れない線」があるのも事実でしょう。

 先週、Colaboに関しての擁護記事を記しました。これは「デマによる社会保障・福祉事業攻撃は許さない」趣旨からの記述でしたが、Colaboの中軸になっている方の意見には賛否別れる部分も。他団体に対する過干渉や、「もう少し発言や“違う環境にいる同性”に穏当にできないか」。

 一方で、“違う環境にいる同性”の方も「不誠実な発言者の利用」はやめていただきたい。

 長い目で見た場合、「欠点は出るだろうが、それは内包しながら物事進めていく」のが適切、と考えますが、そこを見ないで短絡的な思考に走る方もおられます。「しんどくて悠長な対応を待っていられない」からでしょうが、それが別な何かを蹴り飛ばすことを招いているのだとしたら「何か違いますよ」と指摘せざるを得ないものです。

個人の不祥事は個人が被るもの。“連帯責任”要るか?

 同じ目的を持って行動する人が触法容疑で逮捕されました。必要な対応がされることのみ望みます。

 団体の重職を持った人間のそれですから、予想通りというか「お前ら全員触法容疑者だ」と詰り、「連帯責任としてお前ら黙れ」とトーンポリシングかます方がおられます。長野の自民党県議が起こした事件もそうですが、あくまでも個人の領域で起きた事件については個人で処理するのが適切と考えます。

 そうでなくとも、今の社会は「熱を帯はじめると止まらない」傾向ありますので。そんなに「触法行為」嫌なら、自分がするな、でいいのと違いますか。

 繰り返す。「同じ目的で行動する人の触法容疑逮捕」で黙らそうとするな。

今井るるを転向させるだけでは飽き足らず、同サポーターズメンバーをも折りに来る「今の社会」に。

 今井るる離党問題、よそ様のことだから他人ごととして考えていたが、仮にも自民党の苛政を乗り越えようと思って行動していた人間であるならば、同志の人を切り捨てて自分だけ“美味しい所”に行くという行為はいかがなものか。

 今井サポーターズクラブが声明を発表しました。理知的に詰められた文章でしたが、アンチ野党の方々はそれに対しても全力で叩き折りに来る。「今井が自民党に入ったんだよあんたたちも来ないのか薄情者」と。

 ふざけんなとしか思いません。あくまでも「市民からの収奪政治を進めている自民党を乗り越えようとする今井るる」のサポーターズクラブであって、存在価値が180度回転しまえば手伝う義理はなくなるんじゃないんですか。そこを抜きに「あれれぇついてこないのぉ?つめたいねぇぇ」言われても「知るかそんなもの」としか返せない。

 東スポがサポーターズツイートの一部を切り取り「サポーターズも歓迎」しているかのような記事を書き、一部評論家は「どっちもどっち」すら温く、「明らかに誤りだが、批判はやめろ」と擁護する。物わかりの良さに気色悪さを覚えます。今記述は以上です。

「富裕層&株主至上主義」でしょ、見直さなければならないのは。

 富裕層と言われるお方々が、億円単位の金を転がして遊び、更に兆円単位の金を手前の影響下においてウハウハしている一方で、然るべき位置に回るはずのお金が回らなくなって、いままでできていた社会的な物事ができなくなっている。

 そもそもとして。何故労働者や地域事業者に金が回らなくなったか。さっき少し書いたけど、他者に金を出さず、必要な支出も出さず、市民労働者や地域事業者の行動で産み出された利潤を「生殺与奪を握っている俺様」がその大方を奪い取る。小難しく言えば「搾取・収奪行為」が原因と違いますか。「努力が足りない」は諦めさせるための方便。

 市民生活がしんどい一方で、富裕層がグロテスクなまでに利潤を囲い込む。この二つを対比するだけでも「しなければならないものは何か」お気づきになると思います。まして、「収奪する側にいたい」輩が、「その養分」を得るために「邪魔な〜〜は死ね」と語る行為には冷たい視線しかくれてやるものはない。「口減らしされなくてすむ今の社会に感謝しろ」なんて言葉、よく投げつけられますが、むしろ「エサや利潤を独り占めにして図に乗る連中こそ“粛清”されない今に感謝しろ」と申し述べます。

 今回の記事は、たまたま見た「資本主義とたたかう高校生」に触発されて書いてみました。こんなレベルでしか書けないのは申し訳なく思います。おつきあいいただきありがとうございました。

大阪府知事選・たつみコータローさん立候補表明。まず必要なのは行動、の局面です。

 先の立憲若手候補だった人の一件については、昨晩アップ予定が「下書き」フォルダに止まっていました。遅れたことをお詫びします。

 大阪府知事選挙にたつみコータロー氏が立候補を表明しました。これまで10数年の状況からネガティブな言ばかりタイムラインに並びます。「どうせボロ負け」という権威主義者しかり、「たつみ・共産党は突出するな」というご意見も。

 ここ数年、多数を握った権威主義勢力に、それ以外の勢力が組んで「最悪だけは逃れる」やり方で対抗することが主な選択肢にされてきましたが、結果に結ばないだけならまだしも、結果に押し潰されて「引き気味」になる人も少なくありません。腰の引けたやり口を放置して妥協の道ばかり選ばされても「権威主義」に引きずられるだけ。

 それならば、意欲ある人が一石投ずる行為は必要じゃないですか?まずは引っかきキズでもつけないと社会は動かない。「計算がある」と野次馬語りする方もおられますが、私はたつみさんの起意を歓迎し、満身の力をもって加担します。

 何十年もかけて権威主義に絡めとられた社会。反撃の糸口に。以上意思表明とします。

立憲若手支部長の離党報道と雑感。

 国政選挙で立憲民主党から立候補した人が、今年の統一地方選挙では自民党の庇護を受けて立候補するという報道がありました。私にとっては「他人ごと」なので、直接的に思うことはありませんが、ご自身が訴えてきたことと逆のことをしようとする勢力に降るという行為は厳しく見ざるを得ません。

 私の関わる勢力にも、新しい人、若い人は入ってきます。自分もいつのまにか経歴何十年という人間になったので、どういう立ち振舞いをするか、という部分に関して毎日が模索中です。特に、議員になるということは「矢面に立つ位置にいて活動する」ということ。その大変さは分かるだけに、自分より後輩のメンバーがその任に就くときは、より決断に感謝し、適切な行動で支えようという思いでいます(実行できてるかは?)近いところで「青年期の頃に様々壁にぶつかった経験をした人がそれを乗り越えて議員として頑張っている」人がいます。病気もありへし折れてしまった自分と違って、頑張れる力を持った方にはほんと凄いと思う次第です。また、東海地方大都市で「最年少で一人会派」という形で議会に出した方もいますが、先輩方のバックアップ受けながら頑張っている様子を見ています。

 箇所によっては至らぬ行為で“途絶”さしてしまう案件もありましたが、とにかくその位置にいる人を敬意をもって接し共に運動を前に進ませると。これを軸にして人支えて行こうと思っています。

「Colabo」など、市井からの福祉活動中傷に対して回答あり。言いがかりと虐めを排して難儀さに相対しよう。

 1、2日は「市井からの福祉活動者に対する攻撃」に対して一筆入れましたが、Colabo支援者から公式の発表があり、攻撃者の発言が誤っていたことが報じられました。そもそも文章の宛先を間違えて全く逆に絵図を描いた様子には呆れる他ありません。年末にColaboや弁護団が動けない状態見計らい、“先制パンチ→波状攻撃”仕掛けたのでしょうが、お粗末です。

 「対象者を攻める」行為は同じに見えましょうが、「原因があって攻める」のと「攻めるために原因をこしらえる」のは似たものであっても全くの別物だ、というのをそろそろ覚えませんか。

 攻撃者勢力には謝ってほしいとは思いません。形だけ謝られても「免罪の1手段」でしかないですからね。徹底的にやりあうしかない。善意からの「折衝」案もおやめください。

 そろそろ、「ふざけた行為に怒る」ことを思い出してもらいますか。「反対するのは悪いこと」を覆して。でないと止まらない。どんなくそふざけた行為も「反対しないで受け入れろ」がこのような案件を生んだ。以降は冷徹に対処しましょ。

2023年、年頭の挨拶。

 改めて…2023年も始まりました。

 年明け早々「市井からの福祉活動潰し」が激しく行われていたので、その対応を優先したことで、年頭の挨拶が遅れたことをお詫びします。

 近隣の選挙戦で権威主義かつ市民からの搾取を行う勢力を勝たせてしまったことが、「難儀さをいじめ手法で晴らす」やり方を蔓延らせてしまっているのが残念でなりません。難儀を超えるだめに本当に必要なことは何か、を追求し、拙稿で発露していきます。おつきあいよろしくお願いします。